「さっき何の話してたっけ?」
陸が突然聞いた。
由紀と葵が顔を見合わせた。
「確か、エントロピーから始まって…」由紀が思い出そうとした。
「そこから符号化の話になって」葵が続けた。
「で、今は何の話?」
「忘れた」三人が同時に笑った。
葵がノートを開いた。「これ、マルコフ連鎖だ」
「マルコフ連鎖?」由紀が興味を示した。
「状態が確率的に遷移する過程。過去の全履歴じゃなく、現在の状態だけで次が決まる」
陸が考えた。「会話がそうなの?」
「完全には違うけど、近い」葵が説明した。「会話の流れは、直前のトピックに依存する」
「確かに」由紀が同意した。「『エントロピー』と言えば、次は『不確実性』とか『情報量』の話になりやすい」
「それが遷移確率だ」
陸がホワイトボードに図を描いた。「トピックAからトピックBへの矢印」
「そう。各矢印に確率がついてる」
由紀が質問した。「でも、本当に過去を忘れてるんですか?」
「良い疑問」葵が認めた。「実際の会話は、もっと複雑」
「高次のマルコフ連鎖だ。直前のN個の状態に依存する」
陸が理解した。「記憶の深さか」
「そう。人間は、数ステップ前まで覚えてる。でも、永遠には覚えてない」
由紀がメモした。「有限の記憶」
「それがマルコフ性の本質」葵が続けた。「完全な履歴じゃなく、要約された状態」
陸が別の例を考えた。「じゃあ、俺たちの友情も?」
「マルコフ連鎖かも」由紀が笑った。
「今日の相互作用が、明日の関係を決める」
葵が補足した。「でも、完全には忘れない。重要な過去は、現在の状態に組み込まれる」
「状態の定義が重要だ」
由紀が考えた。「状態って、何を含むんですか?」
「それは設計次第」葵が答えた。「単純には、今のトピック。複雑には、感情、文脈、過去の要約」
「状態空間の選び方で、モデルの質が変わる」
陸が真剣になった。「じゃあ、会話を予測できる?」
「ある程度は」葵が認めた。「でも、完璧には無理」
「なぜ?」
「人間は創造的だから。予測可能なパターンから、意図的に逸脱する」
由紀が微笑んだ。「それが自由意志?」
「情報理論的には、そう見える」
陸が笑った。「俺は予測不可能な遷移が多そう」
「高エントロピー遷移だ」葵が認めた。「でも、それが面白い」
由紀が質問した。「マルコフ連鎖って、どこで使われるんですか?」
「あらゆる場所」葵が答えた。「言語モデル、推薦システム、ゲームAI」
「パターンから次を予測する全ての分野」
陸が別の視点を提示した。「でも、予測されたくない時もある」
「同意」葵が頷いた。「完全に予測可能な人生は、つまらない」
「だから、時々ランダム性を注入する」
由紀が理解した。「マルコフ連鎖と自由意志のバランス」
「美しい表現だ」
陸がまとめた。「会話は: 直前の状態に依存(マルコフ性) でも完全には予測不可能(創造性) 有限の記憶(要約) 確率的遷移(不確実性)」
葵が微笑んだ。「良い要約」
由紀がノートを閉じた。「じゃあ、次のトピックは?」
「それは確率的に決まる」陸が笑った。
「でも、予測できない」
葵が立ち上がった。「そこが、人間らしさだ」
三人の会話は続く。マルコフ連鎖のように流れながら、時に予期しない方向へ。
それが、対話の豊かさだった。
窓の外で、雲が形を変える。次の形は予測できない。
でも、それでいい。予測不可能性こそが、世界を美しくする。