「確率空間って、何ですか?」
由紀が聞いた。喫茶店シャノンで、S教授の前に座って。
「数学的には、三つの要素から成る」教授が答えた。「標本空間Ω、事象の集合F、確率測度P」
「難しい...」
葵が補足する。「標本空間は、起こりうる全ての結果の集合」
「例えば?」
「サイコロなら、{1,2,3,4,5,6}」
「それはわかります」
「事象の集合Fは、標本空間の部分集合全体」葵が続けた。「『偶数が出る』は{2,4,6}という事象」
「確率測度Pは?」
「各事象に、0から1の確率を割り当てる関数」教授が説明した。
由紀が考えた。「でも、なぜそんな抽象的な定義が必要なんですか?」
「良い質問だ」教授が微笑んだ。「現実は、サイコロより複雑だからだ」
「どういう意味?」
葵がノートを開いた。「例えば、明日の天気。晴れか雨かだけじゃない。気温も湿度も風速も、全部が確率変数」
「それら全体を扱うには?」
「無限次元の確率空間が必要になる」
由紀が驚いた。「無限次元?」
「そう。でも、数学的枠組みがあれば、厳密に扱える」
教授が付け加えた。「情報理論では、メッセージの列が確率空間の要素だ」
「メッセージの列?」
「無限に続く0と1の列。その全体が標本空間Ωを構成する」
葵が説明した。「そして、各列に確率を割り当てる。それが情報源だ」
「情報源も確率空間なんですね」
「そうだ」教授が頷いた。「全ての不確実性は、確率空間でモデル化できる」
由紀がふと思った。「私たちの人生も、確率空間の中にある?」
「哲学的だな」教授が考えた。「ある意味ではそうだ」
「どういうこと?」
「人生の選択、出会い、出来事。全て、無数の可能性から実現した一つの結果」
葵が続けた。「確率空間Ωには、起こりえた全ての人生がある」
「でも、実現するのは一つだけ」
「そう。標本空間の中の、一つの点」
由紀が静かに言った。「じゃあ、私たちは確率空間の片隅にいる」
「詩的だね」葵が微笑んだ。
教授が深く頷いた。「でも、その片隅が全てだ。実現した世界だけが、私たちには存在する」
「他の可能性は?」
「測度ゼロの事象として、理論上は存在する。でも、経験することはない」
由紀が考え込んだ。「なんだか、不思議ですね」
「何が?」
「無限の可能性の中から、この現実が選ばれた」
葵が言った。「確率論的には、必ず何かが起こる。全事象の確率は1だから」
「でも、この特定の現実が起こる確率は?」
「限りなくゼロに近い」教授が静かに答えた。
「それでも起こった」
「そう。それが確率空間の不思議さだ」
由紀がコーヒーを飲んだ。「私たちがここで会話していることも」
「無数の可能性から実現した、一つの事象」
「奇跡?」
「数学的には、確率測度で説明できる。でも、感じ方は人それぞれだ」
葵が静かに言った。「確率空間の片隅。でも、私たちにとっては、全世界」
「そうだな」教授が認めた。
由紀が窓の外を見た。通りを歩く人々。それぞれが、確率空間の中の一つの実現。
「不確実性の中で、確実に存在している」由紀が呟いた。
「良い表現だ」教授が微笑んだ。
確率空間の片隅。でも、そこには無限の意味がある。