「最近、自分の考えに追いかけられてる気がする」
蓮が珍しく弱音を吐いた。いつもは冷静な彼が、困惑した表情をしている。
「追いかけられてる?」晴が聞き返した。
「考えが止まらない。寝ようとしても、次々と疑問が湧いてくる。まるで、思考が勝手に動いている」
晴が窓際に座った。「思考が勝手に?じゃあ、考えてるのは誰?」
「...俺、のはずだけど」蓮が答えに詰まった。
「本当に?」晴が静かに問い直した。「蓮が思考を操ってるの?それとも、思考が蓮を操ってるの?」
蓮が黙り込んだ。
「デカルトは『我思う、ゆえに我あり』って言った」晴が続ける。「でも、それって、思考があるから自分がいる、ってことだよね」
「思考が先で、自分が後?」
「もしかしたら。思考を観察してる『何か』が自分、とも言えるけど」
蓮が考え込んだ。「メタ認知、ってやつか」
「そう。自分の思考を、もう一段階上から見る」
「でも、その『もう一段階上』も、結局は思考じゃないのか?」
晴が笑った。「無限後退するね」
「思考を観察する思考を観察する思考を...」
「どこまで登っても、思考の外には出られない」
蓮が深呼吸した。「じゃあ、俺は思考に支配されてる?」
「支配、って表現が面白い」晴が指摘した。「支配されてる『俺』が、思考とは別にいる前提だよね」
「いない?」
「もしかしたら、『俺』と『思考』は別物じゃないかも」
蓮が戸惑った。「俺が思考そのもの?」
「もっと正確には、思考のプロセスが『俺』という現象を作ってる、とか」
「仏教的だな」
「そうかも。『無我』って概念。固定した自己は幻想で、実際にあるのは流れだけ」
蓮がノートに何か書こうとして、止めた。「でも、それだと責任は誰が取るんだ?」
「鋭い」晴が頷いた。「もし『俺』が思考の流れに過ぎないなら、行動の責任も幻想?」
「倫理が崩壊する」
「だから、実用的には『俺』が存在すると仮定する必要がある」
蓮が考えた。「存在するかどうかは分からないけど、存在すると考えた方が便利?」
「プラグマティズム。真理より、有用性」
「でも、それって逃げじゃないか?」
晴が静かに答えた。「逃げかもしれないし、知恵かもしれない。答えのない問いに、答えを求め続けるのも一つの生き方」
蓮がふと笑った。「今、この会話も、俺の思考が勝手に進めてる?」
「私の思考と、蓮の思考が、相互作用してる」
「思考同士の対話?」
「そう。『私たち』という主体も、実は流動的」
蓮が窓の外を見た。「じゃあ、思考に追いかけられてる感覚は?」
「思考の一部が、別の部分を観察してる状態かも」
「自己言及のループ」
「そう。ゲーデルの不完全性定理みたいに、システムが自分自身を完全には記述できない」
蓮が深く息を吐いた。「結局、答えは出ない?」
「問い続けることが、答えかもしれない」晴が微笑んだ。「思考は支配者でもあり、支配されるものでもあり、そして観察者でもある」
「矛盾してる」
「人間は矛盾を生きる存在だから」
蓮が初めて、落ち着いた表情を見せた。「思考を止めようとするから、余計に追いかけられる」
「抵抗が緊張を生む」
「じゃあ、思考に身を任せてみる?」
「それも一つの方法。瞑想は、そういうアプローチだね」
蓮がノートを閉じた。「思考は私を支配しない。私が思考だから」
晴が頷いた。「それが、今の蓮の答え」
「明日には変わるかもしれないけど」
「それでいい。思考は流れだから」
二人は静かに座っていた。思考は続いていたが、もう追いかけられている感覚はなかった。