「おめでとう、って言えなかった」
海斗が俯いて言った。カフェの隅で、三人で座っている。
日和が優しく聞いた。「誰に?」
「友達。第一志望に受かったんだ。でも、俺は落ちた」
空が静かに見守っている。
「素直に喜べなかった。最低だよね」海斗が続けた。
日和が首を振った。「最低じゃないです。それは自然な感情です」
「嫉妬ってこと?」海斗が自嘲した。
「嫉妬も含めて、複雑な感情でしょう」日和が答えた。
空が聞いた。「海斗さんは、友達のことが嫌いなんですか?」
「いや、好きだよ。だから余計に辛い」
「それが嫉妬の特徴です」日和が説明した。「対象への肯定的感情と否定的感情が混在する」
海斗が混乱した。「どういうこと?」
「友達として嬉しい気持ちと、比較して悔しい気持ちが同時に存在する」
空が補足した。「心理学では『両価性』と呼ばれます」
海斗が頷いた。「まさにそれ。心が引き裂かれてる感じ」
日和が静かに言った。「でも、その複雑さを認識できることは大切です」
「なぜ?」
「感情を単純化せず、正直に向き合えているから」
空が分析した。「もし単純に『俺は嫉妬深い最低な人間だ』と結論づけたら?」
「自己嫌悪で終わる」海斗が理解した。
「そう。でも、『嬉しい気持ちもあるけど、悔しい気持ちもある』と認めれば、次のステップに進める」
日和が質問した。「海斗さんは、なぜ悔しいと思いますか?」
「それは…俺も受かりたかったから」
「もっと深く探ってみましょう」日和が促した。
海斗が考えた。「友達が受かって、俺が落ちた。それって、俺の方が劣ってるってことでしょ?」
「そこです」空が指摘した。「社会的比較が起きている」
「社会的比較?」
「他者と自分を比べて、自己評価を決めること」空が説明した。「心理学者フェスティンガーが提唱した理論です」
日和が続けた。「人は常に、他者と自分を比較して、自分の位置を確認しようとします」
「でも、それって自然じゃないの?」海斗が聞いた。
「自然です」空が認めた。「問題は、比較の仕方です」
日和が例を出した。「上方比較と下方比較、という概念があります」
「上方比較は、自分より優れた人と比べること。下方比較は、自分より劣った人と比べること」
海斗が理解した。「俺は今、上方比較してる」
「そう。そして上方比較は、自尊心を傷つけることが多い」
空が補足した。「でも、上方比較にも利点があります。目標や刺激になる」
「じゃあ、どうすればいいの?」海斗が混乱した。
日和が答えた。「比較の対象を変えることです」
「対象?」
「他者ではなく、過去の自分と比べる」
海斗がハッとした。「去年の俺と、今の俺を比べる?」
「そう。成長を測る基準を、他者から自分に移す」
空が言った。「心理学では『自己基準評価』と呼ばれます」
海斗が考えた。「でも、結果は変わらない。俺は落ちたんだから」
「結果だけが評価基準ですか?」日和が優しく聞いた。
「それは…」
「海斗さんは、この一年でどれだけ努力しましたか?」
海斗が思い出した。「確かに、勉強時間は増えた。苦手だった科目も克服した」
「それは成長ではないですか?」
「でも、結果に表れなかった」
空が言った。「結果は多くの要因で決まります。努力だけではコントロールできない」
日和が続けた。「コントロールできないことで自分を評価すると、無力感に陥ります」
「じゃあ、何を評価すれば?」
「プロセスです。努力、成長、学んだこと。自分がコントロールできることに焦点を当てる」
海斗が少し表情が明るくなった。「確かに、俺は成長した」
空が微笑んだ。「それに、友達の成功は海斗さんの失敗を意味しません」
「どういうこと?」
「ゼロサムゲームじゃないってことです」日和が説明した。「友達が受かったからといって、海斗さんの価値が下がるわけじゃない」
海斗が考え込んだ。「でも、つい比べちゃう」
「それは人間の本能です」空が認めた。「でも、気づくことができれば、選択できる」
「選択?」
「比較に気づいたら、『あ、今比較してる』と認識する。そして、視点を変える」
日和が提案した。「友達の成功を、自分の可能性として見ることもできます」
「可能性?」
「友達が受かったなら、自分にもチャンスがある。そういう見方です」
海斗が笑った。「ポジティブだね」
「認知の再構成です」空が言った。「同じ事実でも、解釈を変えられる」
日和が静かに言った。「海斗さん、友達におめでとうを言いたいですか?」
海斗が頷いた。「言いたい。でも、素直になれない」
「素直になれない自分も、受け入れてください」日和が励ました。
「矛盾してない?」
「矛盾を抱えるのが人間です。完璧じゃなくていい」
空が言った。「『おめでとう』と『悔しい』は、両立できます」
海斗がゆっくりと言った。「おめでとう、でも俺も悔しい。両方言ってもいいのかな」
「正直ですね」日和が微笑んだ。「良い友情なら、その正直さを受け止めてくれるはずです」
海斗がスマホを取り出した。「メッセージ、送ってみる」
窓の外、雨が降り出した。心の中の嵐も、少しずつ静まっていく。
他人の幸せを喜べない日もある。でも、その複雑さを認めることから、本当の自分への理解が始まる。