「砂糖水が、膜を通して移動してる…」
透が顕微鏡から目を離して呟いた。
奏が興味を持った。「どういうこと?」
ミリアが説明した。「半透膜を使った実験。水は通すけど、糖は通さない」
「じゃあ、水だけが動く?」
零が図を描いた。「濃い方から薄い方へ…ではなく、薄い方から濃い方へ水が移動する」
「逆じゃない?」奏が混乱した。
「拡散とは違う」零が続けた。「これは浸透。濃度を均一にしようとする自然の傾向だ」
ミリアが補足した。「糖が移動できないなら、水が移動して濃度を調整する」
透が理解した。「だから、濃い側に水が集まる」
「そう。この力を浸透圧という」
奏がノートに書いた。「浸透圧…どれくらい強いの?」
零が計算した。「ファントホッフの式で、π = CRT。濃度、気体定数、温度」
「1モルの溶質で、約24気圧」
「24気圧!」透が驚いた。「めちゃくちゃ強い」
「だから、細胞は浸透圧を慎重に管理する必要がある」ミリアが真剣に言った。
奏が質問した。「もし管理できなかったら?」
「細胞が破裂するか、しぼむ」零が答えた。「赤血球を純水に入れると、水が流入して破裂する」
「怖い…」
「逆に、濃い塩水に入れると、水が流出してしぼむ」
透が顕微鏡をのぞいた。「じゃあ、生きた細胞は、常に綱渡り?」
「まさに」ミリアが頷いた。「だから、細胞膜には様々な輸送システムがある」
零が新しい図を描いた。「受動輸送と能動輸送」
「受動?」
「濃度勾配に従う。エネルギー不要。拡散や浸透がこれ」
「能動は?」
「濃度勾配に逆らう。エネルギーが必要」
奏が考えた。「でも、なんでわざわざ逆らうの?」
ミリアが例を出した。「神経細胞は、ナトリウムを細胞外に、カリウムを細胞内に高濃度で維持する」
「逆の濃度勾配?」
「そう。これが電気信号の基礎になる」
零が続けた。「ナトリウム・カリウムポンプが、ATPを使って、イオンを汲み上げる」
「ATPか」透が言った。「またエネルギー通貨」
「そう。能動輸送は高コスト。脳は全エネルギーの半分以上を、イオンポンプに使う」
奏が驚いた。「半分以上?」
「考えることは、エネルギー集約的なんだ」ミリアが微笑んだ。
透がホワイトボードに書いた。「濃度勾配=エネルギー源」
「良い洞察だ」零が認めた。「勾配がある限り、仕事ができる」
「ダムみたいなもの?」
「まさに。位置エネルギーが、水力発電になる。濃度勾配が、化学仕事になる」
ミリアが付け加えた。「ミトコンドリアのプロトン勾配も、同じ原理」
「ATP合成酵素が、勾配を使ってATPを作る」
奏が感心した。「全部つながってる」
零が静かに言った。「生命は、勾配を作り、勾配を使う。平衡は死を意味する」
「深い…」透が呟いた。
ミリアが実験器具を片付けながら言った。「だから、細胞は常にポンプを動かし続ける」
「止まったら?」
「勾配が消失して、膜電位が失われ、機能が停止する」
奏が真剣な顔をした。「生きることは、勾配を維持すること」
「そう」零が頷いた。「熱力学第二法則と戦い続けること」
透が笑った。「エントロピーとの永遠の戦い」
「でも、いつかは負ける」ミリアが静かに言った。「それが生命の有限性」
奏がノートを閉じた。「今日は、哲学的になってきた」
「生化学は哲学だ」零が微笑んだ。「存在の物理化学的基盤」
四人は、実験室の窓から夕日を眺めた。見えない勾配が、世界を動かし続けている。