「また思い出してしまった」
海斗が頭を抱えた。
空が心配そうに聞く。「何を?」
「昨日の失敗。もう忘れたいのに、何度も頭に浮かぶ」
レオが興味深そうに聞いた。「それ、心理学で説明できる現象だ」
「どういうこと?」海斗が顔を上げた。
「白熊のことを考えないでください、と言われたらどうする?」
「白熊のことを考えちゃう」海斗が答えた。
空が気づいた。「あ、それって…」
「皮肉過程理論」レオが説明した。「考えないようにすればするほど、その考えが浮かんでくる」
海斗が驚いた。「なぜそんなことになるの?」
レオがノートに図を描いた。「脳には二つのプロセスがある。意識的な抑制プロセスと、無意識的な監視プロセス」
「監視プロセス?」
「忘れたいことを監視し続ける。でも、監視するということは、その対象に注意を向けるということ」
空が理解した。「だから、忘れようとすればするほど、思い出してしまう」
「その通り」レオが頷いた。「特に、ストレスや疲労がある時、意識的抑制が弱まる。すると、監視プロセスだけが残って、記憶が侵入してくる」
海斗が納得した。「だから、夜とか疲れてる時に思い出すのか」
「侵入的思考と呼ばれる現象だ」レオが続けた。「望まないのに繰り返し浮かんでくる考え」
空が尋ねた。「じゃあ、どうすればいいんですか?」
レオが考えた。「逆説的だけど、忘れようとしないこと」
「えっ?」海斗が困惑した。
「記憶を敵として戦うのではなく、認める。『ああ、また来たな』と観察する」
空が補足した。「マインドフルネスみたいな?」
「そう。判断せず、ただ気づく。そうすると、記憶の力が弱まる」
海斗が試してみた。「昨日の失敗のことを考えている、と」
「良い」レオが認めた。「それだけで、記憶との関係が変わる」
空が聞いた。「他に方法はありますか?」
「記憶を書き出すのも有効」レオが言った。「頭の中でループするのを止めて、外に出す」
海斗がノートを取り出した。「書いてみます」
しばらく書いた後、海斗が言った。「不思議。書いたら、少し客観的に見られる気がする」
「外在化という技法だ」レオが説明した。「問題を自分から切り離す」
空が気づいた。「でも、完全に忘れることはできないんですよね?」
「そう。でも、忘れる必要もない」レオが答えた。「記憶との関係を変えることが目的だ」
海斗が考えた。「敵じゃなくて、ただの情報として扱う?」
「正確」レオが頷いた。「過去の出来事は変えられない。でも、それに対する反応は変えられる」
空がノートにまとめた。「忘れようとすると思い出す。だから、認めて観察する」
海斗が少し笑った。「なんか、脳って不器用ですね」
「人間の脳は完璧じゃない」レオが同意した。「でも、その仕組みを理解すれば、対処できる」
空が尋ねた。「侵入的思考が多い人は、どうすればいいですか?」
「認知行動療法が有効」レオが答えた。「専門家と一緒に、思考パターンを変えていく」
海斗が真剣に聞いた。「それで治るんですか?」
「治るという言葉より、うまく付き合えるようになる、かな」
空が補足した。「完璧を目指さなくていい、ってことですね」
「そう」レオが微笑んだ。「記憶は人間の一部。完全にコントロールできなくて当然」
海斗がノートを閉じた。「今日学んだこと、忘れないようにします」
レオと空が笑った。
「いや、忘れてもいいんだよ」レオが言った。「また思い出したら、その時に対処すればいい」
海斗も笑った。「そうですね。忘れようとしないで、ただ流れに任せます」
空が窓の外を見た。「記憶は川のように流れていくんですね」
「良い比喩だ」レオが認めた。「止めようとせず、ただ流れを見る」
三人は静かに座った。忘れたい出来事も、やがて穏やかに流れていくだろう。