「空気の大部分は窒素なのに、なんで使われないんですか?」
奏が窓の外を見ながら聞いた。
零が答えた。「窒素は、動きたくないんだ」
「動きたくない?」
「三重結合が、あまりにも強い」
ミリアが構造式を描いた。「N≡N。三本の結合で二つの窒素がつながってる」
「強いと、何が問題なの?」奏が聞いた。
「切れない。化学反応に参加しない」零が説明した。
「だから不活性?」
「そう。空気の78パーセントが窒素だけど、ほとんど化学的に眠ってる」
奏がノートに書いた。「でも、生命には窒素が必要ですよね?」
「アミノ酸、核酸塩基、すべてに窒素が含まれる」ミリアが答えた。
「じゃあ、どうやって使うんですか?」
「窒素固定。N≡Nを切って、反応性の高い形に変える」
零が続けた。「自然界では、雷、または窒素固定細菌」
「雷?」透真が驚いた。
「高エネルギーで、三重結合を切る。N₂ + O₂ → 2NO」
ミリアが補足した。「でも効率は悪い。主役は細菌」
「どんな細菌?」
「根粒菌、シアノバクテリア。ニトロゲナーゼという酵素を持つ」
奏が興味を示した。「その酵素、どうやって三重結合を切るの?」
「複雑な金属クラスター。鉄とモリブデンの集合体」零が説明した。
「すごいエネルギーが要るんでしょ?」
「その通り。ATP 16分子を消費して、ようやく1分子のN₂を固定する」
ミリアが数字を示した。「N₂ + 8H⁺ + 8e⁻ + 16ATP → 2NH₃ + H₂ + 16ADP」
「アンモニアになる?」奏が確認した。
「そう。アンモニアは反応性が高い。ここから、アミノ酸が作られる」
零が図を描いた。「NH₃ → グルタミン → 他のアミノ酸」
「すべてのタンパク質の出発点」
奏が考えた。「じゃあ、窒素固定できない生物は?」
「植物の多くは自分でできない。だから共生する」ミリアが答えた。
「共生?」
「マメ科植物と根粒菌。菌が窒素を固定して、植物に供給する」
零が続けた。「見返りに、植物は糖を与える。相利共生だ」
奏がつぶやいた。「窒素を巡る協力」
「人間も窒素固定に頼ってる」ミリアが言った。
「どうやって?」
「ハーバー・ボッシュ法。工業的な窒素固定」
零が説明した。「N₂ + 3H₂ → 2NH₃。高温高圧で強制的に反応させる」
「これが肥料になる?」
「そう。世界の食糧生産を支えてる」
奏が驚いた。「窒素固定がなかったら?」
「人口の半分が養えない」ミリアが静かに言った。
「そんなに重要…」
零が続けた。「でも、環境負荷も大きい。過剰な窒素が、水を汚染する」
「バランスが難しい?」
「そう。窒素は必須だけど、多すぎても問題」
奏が窓の外を見た。「空気中の窒素は、静かに待ってる」
「三重結合に守られて、じっと動かない」
ミリアが付け加えた。「でも、特別な力で目覚めると、生命の材料になる」
零が頷いた。「窒素が動かない理由は、安定だから。動くときは、大きな意味がある」
奏が試験管を見つめた。「静かな窒素が、命を作る」
「それが、窒素の不思議だ」零が結んだ。
三人は、見えない窒素の静けさを感じながら、実験を続けた。