ミラが図書館で一冊の本を手にしていた。『記憶とトラウマ』というタイトル。
空とレオが近づいた。
「ミラさん、また記憶について調べてるんですか?」空が聞いた。
ミラが頷いた。ノートに書いた。「忘れられない出来事がある」
レオが座った。「ネガティブな記憶は、ポジティブな記憶より強く残る傾向がある」
「なぜですか?」空が聞く。
「進化心理学的な説明では、危険を記憶することが生存に有利だったから」
ミラがページをめくった。そこには「ネガティビティバイアス」という言葉があった。
「ネガティビティバイアス」空が読んだ。「否定的な情報を優先的に処理する傾向」
レオが説明した。「例えば、十個の良い出来事と一個の悪い出来事があったとする。人は悪い出来事をより鮮明に覚えている」
「バランスが悪い気がします」空が言った。
「でも、生存戦略としては合理的だ。危険を忘れると、同じ失敗を繰り返す」
ミラが新しいページに書いた。「裏切り」
空が少し驚いた。「裏切られた記憶ですか?」
ミラが静かに頷く。
レオが慎重に言った。「裏切りは、特に強烈な感情的記憶になる。信頼という基盤が崩れるから」
「感情的記憶?」
「感情が伴う記憶は、扁桃体という脳の部位で強化される。アドレナリンが分泌されると、記憶の定着が促進される」
空が理解した。「だから、怖い体験や悲しい体験は忘れにくい」
「そう。脳が『重要な出来事』として認識する」
ミラがじっと本を見つめた。レオが優しく言った。
「でも、記憶は固定されたものじゃない。再構成される」
「どういうことですか?」空が聞く。
「記憶を思い出すたびに、少しずつ変化する。新しい情報や視点が加わる」
ミラが顔を上げた。興味を示している。
レオが続けた。「だから、同じ出来事でも、時間が経つと違った意味を持つことがある」
空が考えた。「裏切られた記憶も、変わる可能性がある?」
「完全に消えはしない。でも、解釈は変えられる」
ミラがノートに書いた。「どうやって?」
レオが真剣に答えた。「まず、その記憶に向き合うこと。避け続けると、固着してしまう」
「向き合うのは辛いですよね」空が言った。
「もちろん。だから、安全な環境で、少しずつ」
ミラが書いた。「ここは安全?」
空が微笑んだ。「もちろんです」
レオが説明を続けた。「次に、その出来事を別の視点から見てみる。なぜそれが起きたのか、相手の事情は何だったのか」
「相手を許すということ?」空が聞く。
「許す必要はない。ただ、理解しようとすること。それだけで、記憶の感情的な強度が下がることがある」
ミラが考え込んだ。
「もう一つ重要なのは」レオが言った。「その経験から何を学んだか、ポジティブな側面を見つける」
空が補足した。「ポスト・トラウマティック・グロース。心的外傷後成長ですね」
「よく知っている」レオが認めた。「困難な経験を通して、人は成長することがある」
ミラが書いた。「裏切りから学んだこと」
そして、しばらく考えてから、また書いた。「人を簡単に信じない。でも、信頼できる人もいる」
空が読んで頷いた。「それは大切な学びですね」
レオが言った。「記憶は、単なる過去の記録じゃない。現在の自分を形作る要素だ」
「だから、記憶との関係を変えることが、自分を変えることになる」
ミラが微笑んだ。初めて見る、穏やかな笑顔だった。
空が聞いた。「ミラさん、その記憶、少し軽くなりましたか?」
ミラが頷いた。そして書いた。「完全には消えない。でも、支配されなくなった」
レオが認めた。「それが健全な関係だ。記憶と共存する」
「忘れるのではなく、統合する」空が要約した。
ミラがノートを閉じた。裏切られた記憶は残る。でも、その意味は変えられる。そして、それを支える人がいれば、記憶の重さは少し軽くなる。
三人は静かに図書館を出た。過去は変えられない。でも、過去との関係は変えられる。それが、記憶と生きるということだった。