「おかしい…反応が進まない」
透真が試験管を振った。
奏が覗き込む。「何の実験?」
「酵素反応。でも、昨日はちゃんと働いたのに」
零が近づいた。「条件を確認した?」
「温度、pH、基質濃度…全部同じはず」
ミリアが試薬瓶を見た。「この酵素、古くない?」
「先週開けたばかり」透真が答えた。
零がノートを見た。「酵素は気まぐれじゃない。理由がある」
「理由?」奏が興味を示した。
「まず、酵素とは何か」ミリアが説明を始めた。「タンパク質の触媒」
「触媒?」
「反応を速めるけど、自分は変わらない」零が補足した。
透真が付け加えた。「活性化エネルギーを下げる」
「活性化エネルギー?」奏が首を傾げた。
ミリアが図を描いた。「反応が起きるには、エネルギーの壁を越える必要がある」
「酵素は、その壁を低くする」
零が続けた。「基質を活性部位に結合させて、遷移状態を安定化させる」
「活性部位?」
「酵素のポケット。基質がぴったり収まる」透真が説明した。
奏が理解した。「鍵と鍵穴?」
「まさに。基質特異性と呼ばれる」
ミリアが例を出した。「ラクターゼは乳糖だけを分解する。他の糖は無視」
「なんで?」
「形が合わないから」零が答えた。
透真が考えた。「じゃあ、今回の問題は?」
ミリアが試験管を見た。「阻害剤が混入したかも」
「阻害剤?」
「酵素の働きを止める物質」零が説明した。
「競合阻害と非競合阻害がある」
奏がノートに書いた。「競合?」
「基質と似た形の分子。活性部位を奪い合う」透真が言った。
ミリアが付け加えた。「基質濃度を上げれば、阻害を克服できる」
「非競合阻害は?」
「別の場所に結合して、酵素の形を変える」零が図を描いた。
「形が変わると、活性部位も変わる」
奏が理解した。「だから基質が入らない?」
「そう。基質を増やしても無駄」
透真が試薬棚を見た。「何か混ざったかな?」
ミリアが瓶を確認した。「これ、重金属イオン入ってる?」
「え?」透真が驚いた。
「Pb²⁺やHg²⁺は、酵素を不活性化する」
零が説明した。「システイン残基のチオール基に結合する」
「チオール基?」
「-SH。酵素の活性に重要な基」
奏が質問した。「それで形が変わる?」
「ジスルフィド結合ができたり、金属が配位したり」
透真が別の瓶を見つけた。「あ…これ使ったかも」
「汚染されてたんだ」ミリアが納得した。
零が続けた。「温度も重要だった」
「温度は同じだって」透真が反論した。
「でも、昨日と今日で違う」
奏が気づいた。「今日、暖房つけた?」
「あ…」透真が実験台を触った。「ちょっと熱い」
「酵素には最適温度がある」ミリアが説明した。
「高すぎると、変性する」
零が図を描いた。「タンパク質の立体構造が壊れる」
「壊れたら、戻らない?」奏が尋ねた。
「多くの場合、不可逆的」
透真がため息をついた。「だから反応が止まったのか」
ミリアが励ました。「新しい酵素で、やり直そう」
「今度は、条件を厳密に」零が言った。
奏が整理した。「温度、pH、阻害剤、変性…」
「酵素は繊細」透真が認めた。
「でも、働くときは驚くほど速い」ミリアが付け加えた。
零が数字を示した。「カタラーゼは、1秒に400万分子のH₂O₂を分解する」
「400万!」奏が驚いた。
「触媒効率は、10¹⁷倍にもなる」
透真が感心した。「人工触媒じゃ、到底無理」
「生命が何億年もかけて最適化した」
ミリアがノートを開いた。「酵素の名前は、基質+-aseが多い」
「プロテアーゼ、リパーゼ、アミラーゼ」
奏が笑った。「わかりやすい」
零が付け加えた。「でも、例外もある。ペプシン、トリプシン…」
「歴史的な名前」
透真が新しい試験管を用意した。「よし、もう一回」
「今度は成功する」ミリアが微笑んだ。
奏が見守った。「酵素、頑張って」
零が笑った。「気まぐれじゃなくて、敏感なんだ」
透真が基質を加えた。すぐに反応が始まった。
「動いた!」
四人が見つめる中、酵素は静かに働き続けた。
奏がつぶやいた。「酵素は、生命の芸術家」
「繊細で、速くて、正確」
ミリアがノートを閉じた。「だから生命は成り立つ」
実験台の上で、何兆もの分子が変換されていく。酵素の魔法が、続いている。