「やっちゃった…」
実験室で、透は青く変色した溶液を見つめていた。
「何を入れたの?」奏が駆け寄る。
「ただのビタミンCのはずだったんだけど…ヨウ素液に入れたら、色が消えた」
零が冷静にノートを覗き込んだ。「還元反応だ。電子が移動した」
「電子が移動?どういうこと?」奏が首をかしげる。
零は簡単な図を描き始めた。「化学反応の本質は、電子のやり取り。ビタミンCは電子を渡して、ヨウ素は電子を受け取った」
「でも、どうして電子が移動するの?」
「電子の『居心地』が違うから。原子によって、電子を引きつける力が異なる」
透が思い出したように言った。「電気陰性度?化学で習った!」
「そう。ヨウ素の方が電気陰性度が高いから、電子を奪い取れる。これが酸化還元反応だ」
奏がノートに書き込んだ。「酸化って、酸素と結びつくことだと思ってた」
「もともとはそう。でも本質は電子の移動。電子を失うのが酸化、得るのが還元」
零は別の例を示した。「鉄が錆びるのも酸化。鉄原子が電子を失って、鉄イオンになる」
「じゃあ、その電子はどこへ?」
「酸素が受け取る。酸素は還元される」
透が興奮した。「つまり、酸化と還元はセットなんだ!」
「正確。片方だけでは起きない。電子の授受は常にペアで」
奏が実験台を見回した。「じゃあ、この部屋でも色んなところで電子が飛び交ってる?」
零が頷いた。「呼吸も、電子伝達系を通じて電子が移動する。食べ物の栄養素から電子を取り出して、最終的に酸素へ渡す」
「電子って、そんなに大事なの?」
「エネルギーの通貨だ。電子が高エネルギー分子から低エネルギー分子へ移るとき、そのエネルギー差を生命活動に使える」
透がビタミンCの瓶を見つめた。「ビタミンCって、体の中でも電子を渡してるの?」
「そう。抗酸化物質と呼ばれる理由だ。体内の有害な酸化反応を防ぐために、自分が先に電子を渡す」
「身代わり?」奏が驚いた。
「ある意味ね。フリーラジカルという不安定な分子から、細胞を守る」
零はホワイトボードに電子の流れを描いた。矢印が複雑に交差する。
「生化学の反応は、ほとんどが電子移動。光合成も、細胞内代謝も」
奏が目を輝かせた。「電子って、小さいのに世界を動かしてるんだ」
「量子レベルの話だけど、その影響はマクロまで及ぶ」
透が再び溶液を見た。色が戻り始めている。
「あれ、青くなってきた?」
零が説明した。「空気中の酸素が、また電子を奪い取ってる。可逆反応だ」
「電子の綱引きみたい」奏が笑った。
「まさに。酸化還元は、電子をめぐる競争」
透が真剣な顔をした。「じゃあ俺たちも、食べて呼吸するたびに、電子の綱引きしてるんだ」
「生きることは、電子を制御すること」零が静かに言った。
三人は溶液を見つめた。色が揺らぎ、変わり、また戻る。電子の旅路を、目の前で見ているような気がした。
「化学って、ほんとに生きてるんだ」奏がつぶやいた。
実験室に、静かな共感が広がった。