「良いことより、悪いことの方が覚えてる」
ノアがノートを見ながら言った。
レンが頷いた。「ネガティビティ・バイアス。心理学の概念だ」
「ネガティビティ?」
「否定的な情報は、肯定的な情報より強く記憶される傾向」
美緒が静かに座っていたが、わずかに頷いた。
ノアが例を出した。「十回褒められても、一回の批判が心に残る」
「それは不公平に感じるけど、進化的には合理的かもしれない」レンが説明した。
「どうして?」
「危険を避けることは、快楽を得ることより重要だった。生存のため」
ノアが納得した。「ネガティブな経験を忘れると、同じ危険に遭う」
「そう。だから脳は、嫌な記憶を強化する仕組みを持つ」
美緒が小さく呟いた。「強すぎる」
二人が驚いて振り返った。美緒が話すのは珍しい。
「強すぎる?」ノアが聞く。
美緒は言葉を選んだ。「時々、必要以上に残る」
レンが理解した。「トラウマのことか」
美緒が頷く。
ノアが静かに言った。「不幸な記憶が、現在を侵食することがある」
「PTSD、心的外傷後ストレス障害。適応的だった機能が、過剰になる」レンが補足した。
美緒が窓を見た。「忘れたいのに、忘れられない」
ノアが優しく言った。「それは、あなたの脳が守ろうとしてるのかも」
「守る?」
「二度と傷つかないように。でも、それが新しい傷になることもある」
レンが哲学的な観点を加えた。「ショーペンハウアーは、人生は苦痛だと言った」
「悲観的」ノアが苦笑した。
「でも、彼の指摘は鋭い。幸福は苦痛の不在に過ぎないと」
ノアが反論した。「それは違うと思う。幸福には、固有の質がある」
「どんな?」
「つながり、意味、美。単に痛くないだけじゃない」
レンが考えた。「でも、幸福が当たり前になると、感じなくなる。ヘドニック適応」
「慣れるってこと?」
「そう。昇給しても、数ヶ月で幸福度は元に戻る。でも、不幸は長く残る」
美緒が静かに言った。「不公平」
ノアが頷いた。「でも、そこに意味を見つけることはできる」
「意味?」レンが問う。
「不幸を経験することで、幸福の価値が分かる。コントラスト効果」
レンが補足した。「ニーチェの言う『強くなるものは殺さない』か」
「苦難が成長をもたらす、という考え」ノアが言った。「でも、強制すべきじゃない」
「同意」レンが言った。「意味を見出すかは、本人の自由だ」
美緒が小さく微笑んだ。「意味は、後から」
「後から?」
「その時は辛いだけ。意味は、時間が経って初めて見える」
ノアが深く頷いた。「物語化。経験を意味あるものに変換する」
レンが興味を示した。「記憶の再構成だね。同じ出来事でも、解釈は変わる」
美緒が続けた。「だから、不幸も変わる。記憶は固定じゃない」
「それは希望だ」ノアが言った。「過去は変えられないけど、意味は変えられる」
レンが問うた。「でも、それは過去を歪めることにならない?」
「歪めるんじゃなくて、別の側面を見る」ノアが答えた。「多面的な真実」
美緒が静かに言った。「許し」
「許し?」
「不幸を許すこと。相手じゃなくて、記憶を」
ノアが涙ぐんだ。「美しい考え」
レンが真剣に言った。「記憶との和解。アウシュヴィッツ後の哲学が直面した問題だ」
「忘れるべきか、覚えておくべきか」ノアが言った。
美緒が答えた。「覚えて、変える」
「覚えて、変える」レンが繰り返した。「記憶の主体性」
ノアが整理した。「不幸が強く残るのは、生物学的な理由がある。でも、その記憶をどう扱うかは、私たち次第」
美緒が最後に言った。「印象は強い。でも、支配されない」
レンが頷いた。「記憶は過去だが、意味は現在だ」
三人は静かに座っていた。不幸の記憶が、少しだけ軽くなった気がした。