「正しいことを言ってるのに、喧嘩になるのはなぜ?」
晴の素朴な疑問に、サイモンが深く頷いた。
「それは、哲学の根本問題だ」
レンが補足した。「正しさの基準が、一つじゃないから」
「でも、真実は一つでしょ?」晴が反論した。
サイモンが微笑んだ。「それが、絶対主義の立場だ」
「絶対主義?」
「唯一の真理が存在するという考え。プラトンのイデア論に近い」
レンが対比を示した。「相対主義は、真理は文脈や立場によって変わると主張する」
晴が混乱した。「じゃあ、何でもありってこと?」
「そうじゃない」サイモンが言った。「相対主義と虚無主義は違う」
「どう違うの?」
「相対主義は、複数の正しさを認める。虚無主義は、正しさ自体を否定する」
レンが例を出した。「二人が山を別の方向から見てる。片方は『緑だ』、もう片方は『岩だ』と言う」
「どっちも正しい」晴が理解した。「視点が違うだけ」
「そう。でも、それぞれが『自分だけが正しい』と思うと、対立が生まれる」
サイモンが歴史を持ち出した。「宗教戦争、イデオロギー対立。全て、絶対的正義の衝突だ」
「恐ろしい」晴が呟いた。
「正義は、時に最も危険な概念になる」レンが真剣に言った。
「なぜ?」
「正義の名の下では、何でも正当化できるから」
サイモンが続けた。「『正しいから』という理由で、異端者を焼いた。侵略した。虐殺した」
晴が震えた。「でも、正しくないことを放っておくのも良くない」
「そのジレンマだ」レンが頷いた。「正義を追求すべきだが、絶対視すると危険」
サイモンが解決策を示した。「カール・ポパーの『寛容のパラドックス』を知ってるか?」
「知らない」
「寛容な社会は、不寛容を許容すべきか」
晴が考えた。「許容したら、不寛容に乗っ取られる?」
「そう。だから、寛容にも限界がある。自己防衛が必要だ」
レンが別の角度を提示した。「ロールズの『正義論』では、公正さを手続きで定義する」
「手続き?」
「誰もが合意できるプロセス。内容じゃなく、方法の正しさ」
晴が興味を持った。「でも、それでも対立は起きる」
「起きる」サイモンが認めた。「完璧な解決はない」
レンが続けた。「だからこそ、対話が重要だ。ハーバーマスの言う『コミュニケーション的理性』」
「コミュニケーション的理性?」
「対話を通じて、合意を形成する。押し付けじゃなく、説得」
サイモンが補足した。「でも、それも理想論だ。現実には、権力差や時間制約がある」
晴が諦めかけた。「じゃあ、どうすればいいの?」
「完璧を求めない」レンが言った。「不完全な合意を、暫定的に受け入れる」
サイモンが付け加えた。「そして、常に修正可能にしておく。フォールビリズム」
「フォールビリズム?」
「誤謬主義。全ての知識は誤りうるという前提」
晴が理解し始めた。「自分の正しさを、絶対視しない」
「その通り」レンが頷いた。「知的謙虚さ」
サイモンが静かに言った。「正しさは人を結びつけもする。でも、それは絶対化しない正しさだ」
晴が問うた。「それって、弱くない?」
「逆だ」レンが答えた。「柔軟性こそ、強さだ」
サイモンが例を出した。「竹は嵐で折れない。しなるから」
「頑なな木は、折れる」晴が呟いた。
「正義も同じ」レンが言った。「柔軟な正義は、生き延びる」
晴が窓の外を見た。多様な人々が歩いている。
「みんな、それぞれの正しさを持ってる」
「そう」サイモンが微笑んだ。「それを認めることが、共存の第一歩だ」
レンが最後に言った。「正しさは分断するが、正しさへの謙虚さは繋ぐ」
晴が深く頷いた。「難しいけど、大切なことだね」
三人は静かに考えた。正義と寛容の、難しいバランスを。