「健康のためにジョギングする」
晴が宣言した。昼休み、ベンチに座る三人。
「昨日も同じこと言ってた」蓮が指摘する。
「今度こそ本気」
「昨日も『今度こそ』って言った」
晴が言葉に詰まった。「...言ってたかも」
乃愛が優しく微笑んだ。「自己矛盾に気づいたね」
「わかってる。でも、できないんです」
蓮が問う。「なぜ走らないと分かってるのに、『走る』と言う?」
「言った瞬間は、本当にそう思ってるから」
「でも実行しない」
「明日になると、別の気持ちになってる」
乃愛が介入した。「認知的不協和だね」
「認知的?」
「行動と信念のズレが、心に不快感を生む。その不快感を解消するために、人は色々な戦略を使う」
蓮がノートに書いた。「行動を変える、信念を変える、新しい情報を加える」
「私はどれ?」晴が聞く。
「新しい情報を加えてる」乃愛が答えた。「『明日から本気出す』という希望を追加して、今日走らない自分を正当化する」
「合理化...」
「そう。自己欺瞞の一種」
晴が抵抗した。「でも嘘ついてるわけじゃない。本当に走りたいと思ってる」
「意識的には」蓮が言った。「でも無意識では、快適さを優先してる」
「じゃあ、私は自分に嘘をついてる?」
乃愛が考え込んだ。「『嘘』とは少し違う。自己矛盾を認識しながら、その不快感から目を背けてるだけ」
「見て見ぬふり」
「人間の防衛機制」蓮が続けた。「完璧に一貫した人間は、むしろ不自然だ」
「でも、矛盾を認めたら楽になる?」晴が尋ねる。
「必ずしも」乃愛が答えた。「矛盾を認めると、自己イメージが崩れる。それは耐え難い」
「だから無視する」
「自我を守るため」
蓮が別の角度を示した。「哲学的には、人間は本質的に矛盾した存在かもしれない」
「どういうこと?」
「理性と感情、理想と現実。常に分裂してる」
「じゃあ、矛盾は当たり前?」
「むしろ、矛盾があるから人間らしい」乃愛が言った。
晴が少し安心した。「でも、それって開き直りじゃ?」
「違う」蓮が真剣に答えた。「矛盾を認識することと、それを放置することは別」
「認識したら?」
「選択できる。行動を変えるか、信念を調整するか」
乃愛が補足した。「大事なのは、自己欺瞞に気づくこと。気づけば、対処できる」
「気づかないふりをするのが問題」
晴が考えた。「私、気づいてるけど変えられない」
「それも一つのステップ」蓮が言った。「次は『なぜ変えられないか』を問う」
「なぜ?」
「走ることのコストと、走らないことのベネフィット。無意識に比較してる」
「走らない方が楽」
「その『楽さ』が、何をもたらすか考えてみる」乃愛が促した。
晴が黙った。窓の外で誰かが走っている。
「見て見ぬふりをやめると、不快感が増す」
「最初はね」蓮が認めた。「でも、その先に誠実さがある」
「誠実さって、自分に対して?」
「そう。自己欺瞞からの解放」
乃愛が静かに言った。「完全に矛盾をなくす必要はない。でも、それを見つめる勇気は持てる」
「見つめる勇気」晴が繰り返した。
「それが哲学の始まり」
チャイムが鳴った。午後の授業。
「今日から走る?」蓮が聞いた。
晴が笑った。「わからない。でも、わからないって認める」
「それが正直さ」
三人は教室へ向かった。矛盾を抱えながら、それでも前へ。