「決められない」
晴が頭を抱えた。進路調査票が目の前にある。
乃愛が優しく聞いた。「どっちも魅力的?」
「そう。理系も文系も、どちらも興味がある」
レンが静かに言った。「迷うのは自然だ」
「でも、決めないといけない」
「なぜ迷うか考えたことある?」レンが問うた。
晴が困惑した。「なぜって...選択肢が複数あるから?」
「それだけじゃない」乃愛が付け加えた。「もし片方が明らかに良ければ、迷わない」
「つまり?」
「選択肢が同程度に価値がある。だから迷う」レンが説明した。
晴が納得した。「確かに。どちらにも良さがある」
「これを『価値の多元性』という」
「価値の多元性?」
「異なる種類の価値が、単純に比較できない状態」
乃愛が例を出した。「芸術的価値と科学的価値。どちらが上とは言えない」
「測る物差しが違う?」
「そう」レンが頷いた。「異なる次元の価値を、一つの尺度で測れない」
晴が考えた。「じゃあ、どうやって決めるの?」
「それが哲学的に難しい」
乃愛が静かに言った。「完璧な選択なんてないのかも」
「ない?」
「どちらを選んでも、何かを失う。それが選択だ」
晴が寂しそうに言った。「全部は手に入らない」
「そう。これを『機会費用』とも言う」レンが補足した。
「機会費用?」
「一つを選ぶことで、失われる他の選択肢の価値」
晴が深くため息をついた。「じゃあ、後悔するの?」
「後悔するかもしれない」乃愛が認めた。「でも、それも人生の一部」
「慰めにならない」
レンが真剣な顔をした。「でも、逆に考えてみて」
「逆?」
「迷わない人生は、選択肢がない人生だ」
晴が顔を上げた。「選択肢がない?」
「そう。迷えるということは、可能性が開かれているということ」
乃愛が微笑んだ。「迷いは、豊かさの証かもしれない」
晴が少し救われた顔をした。「そう考えると...」
「でも」レンが続けた。「迷いすぎも問題だ」
「どうして?」
「決断を延期し続けると、機会そのものを失う」
「選ばないことが、最悪の選択?」
「時にはそうだ。サルトルは言った。『選ばないことも選択だ』」
乃愛が付け加えた。「でも、焦る必要もない。考える時間も大切」
「バランスが難しい」晴が呟いた。
レンが説明した。「情報を集め、熟考し、でもどこかで決断する」
「どこかで?」
「完全な情報は得られない。不確実性の中で決める」
晴が不安そうに聞いた。「間違えたら?」
「間違いの可能性は常にある」レンが認めた。「でも、それを恐れて動けないより、選んで学ぶ方がいい」
乃愛が静かに言った。「選択は、答えじゃなくて、始まりかも」
「始まり?」
「選んだ後、その道を歩む。そこで新しい自分を作る」
晴が理解し始めた。「選択が自分を決める?」
「逆だ」レンが言った。「自分が選択を決めるんじゃない。選択が自分を作る」
「難しい」
「キルケゴールは言った。『人生は前向きにしか生きられないが、後ろ向きにしか理解できない』」
乃愛が優しく訳した。「今は分からなくても、後で意味が見える」
晴が調査票を見た。「じゃあ、今は分からなくていい?」
「分からないことを認めつつ、それでも選ぶ」レンが言った。
「勇気がいる」
「そう。選択には勇気が必要だ」
乃愛が晴の手を軽く握った。「でも、一人じゃない。迷いを共有できる」
晴が微笑んだ。「ありがとう」
レンが立ち上がった。「完璧な選択はない。でも、誠実な選択はある」
「誠実な選択?」
「自分に正直に、よく考えて、決める」
晴が深呼吸した。「じゃあ、考えてみる」
「それでいい」乃愛が頷いた。
人はなぜ迷うのか。可能性があるから。価値が多様だから。そして、未来が不確実だから。
でも、迷いながら進むこと。それが、生きることだった。