「時計を忘れたら、すごく不安だった」
晴が腕時計を見つめながら言った。
「なぜ?」レンが聞く。
「遅刻しそうで、予定が分からなくて」
「時間がないと、不安になる」
美緒が静かに本を置いた。珍しい。
「でも」レンが考えた。「動物は時計を持たない。それでも生きている」
「本能で時間を感じるんじゃない?」
「概日リズム。でも、それは『今何時か』じゃなくて、『昼か夜か』の区別だ」
晴が興味を持った。「人間だけが時間を気にする?」
「正確には、未来と過去を明確に区別するのは人間だけかもしれない」
美緒がノートに書いた。「Now. Always now.」
レンが頷いた。「動物は『今』しか生きない。人間は過去を記憶し、未来を想像する」
「それが、時間への執着?」
「一部はそう。でも、根本的な理由は別にある」
「何?」
「死の自覚」レンが静かに言った。
晴が息を呑んだ。
「人間は、自分が死ぬと知っている。時間が有限だと理解している」
「だから、時間を気にする?」
「有限な資源は、管理したくなる」
美緒が再び書いた。「Time = Life」
「時間は命そのもの」晴が訳した。
レンが続けた。「一秒一秒が、命の消費だ。だから、無駄にしたくない」
「でも」晴が疑問を持った。「無駄な時間って、何?」
「...定義が難しい」
「楽しければ無駄じゃない?でも、後で後悔することもある」
美緒が顔を上げた。視線がレンを捉える。
レンが考え込んだ。「価値観の問題だ。何を重視するかで、無駄の定義が変わる」
「じゃあ、絶対的な無駄は存在しない?」
「おそらく」
晴が時計を外した。「じゃあ、時計がなくても問題ない?」
「社会的には問題だ」レンが苦笑した。「約束は時間で決まる」
「なぜ社会は時間に縛られるの?」
「協調のため。複数の人が同時に動くには、共通の時間基準が必要だ」
美緒が書いた。「Synchronization」
「同期」晴が読んだ。「みんなが時計を見るのは、他人と合わせるため?」
「そう。時間は社会的な契約だ」
晴が考えた。「もし一人なら、時間は要らない?」
「必要性は減る。でも、完全にはなくならない」
「なぜ?」
「季節の変化、空腹のサイクル。身体自体が時間を刻んでいる」
美緒が立ち上がり、窓を開けた。風が入る。
「今、何時?」晴が聞いた。
レンが時計を見た。「午後三時」
「でも、風に時間はない」
「物理的には、時間は存在する。エントロピーの増大が、時間の矢を作る」
晴が混乱した。「難しい」
美緒が戻ってきて、一言。「Feel」
「感じろ、ってこと?」晴が聞く。
美緒が頷いた。
レンが解釈した。「時計の時間じゃなくて、体感する時間」
「体感時間?」
「楽しい時は早く、退屈な時は遅く感じる。それが主観的時間だ」
晴が笑った。「あ、それは確かに」
「時間は一定じゃない。経験によって伸び縮みする」
美緒がまた書いた。「Clock time vs. Lived time」
「時計の時間と、生きられた時間」晴が訳した。
「どちらが本当の時間?」レンが問うた。
晴が迷った。「...両方?」
「良い答えだ。人間は両方の時間に生きている」
美緒が微笑んだ。稀な表情だ。
晴が時計を見た。「時間を気にするのは、人間の宿命かな」
「宿命というより、選択かもしれない」レンが言った。
「選択?」
「時間を意識することで、何かを得ている。効率、計画、そして意味」
晴が考えた。「意味?」
「有限だからこそ、今が貴重になる」
美緒が最後に書いた。「Memento mori」
「死を想え」レンが訳した。「古代ローマの格言だ」
「暗い」晴が言った。
「いや。生を大切にしろ、という意味だ」
晴が深呼吸した。「時間を気にするのは、生きている証拠」
レンが頷いた。「そして、どう気にするかが、生き方を決める」
美緒が本を閉じた。静かに、でも確かに、時間は流れていた。