「ごめんなさい」
晴が美緒に謝った。借りた本を汚してしまったからだ。
美緒は静かに頷いた。許されたようだ。
サイモンが興味深そうに聞いた。「なぜ謝ったんだ?」
「だって、悪いことしたから」
「それだけ?」
晴が考えた。「本を元に戻せないから。せめて謝る」
「謝罪は、何を意味するんだろう」
「責任を認めること?」晴が答えた。
サイモンが頷いた。「それもある。でも、もっと深い意味があるかもしれない」
「深い意味?」
「謝罪は、関係の修復を求める行為だ」
晴が理解し始めた。「美緒との関係を壊したくないから、謝った」
「そう。謝罪は、相手への配慮を示す」
美緒が本を開いた。一言も言わないが、聞いている。
サイモンが続けた。「西洋では、謝罪は法的な意味も持つ。罪を認めること」
「だから、簡単に謝らない人もいる?」晴が聞いた。
「そう。謝罪は、法的責任の承認になり得る」
「日本では、よく謝るよね」
「日本の謝罪は、責任の承認というより、共感の表現だ」
晴が驚いた。「共感?」
「『あなたが困っている。私も心配している』という気持ちを伝える」
「確かに、電車が遅れても駅員さんが謝る」
「それは法的責任じゃない。でも、顧客の不便に共感している」
美緒が小さく頷いた。サイモンが気づく。
「美緒は、晴の謝罪を受け入れた。なぜだと思う?」
晴が考えた。「誠意が伝わった?」
「謝罪の誠実さは、どう測るんだろう」
「言葉だけじゃなくて、態度とか」
サイモンが補足した。「アリストテレスは、徳の倫理を説いた。行為より、人格が大事だ」
「謝る人の人格?」
「そう。常に誠実な人の謝罪は信頼される。嘘つきの謝罪は疑われる」
晴が納得した。「だから、日頃の行いが大事」
「謝罪は、過去の行為だけでなく、未来の約束でもある」
「未来の約束?」
「『二度としない』という意志の表明」
晴が真剣に言った。「じゃあ、謝るだけじゃダメ。行動で示さないと」
「その通り」サイモンが認めた。
美緒が晴に本を差し出した。別の本だ。
「これ、借りていいよ、ってこと?」晴が驚いた。
サイモンが微笑んだ。「許しの表現だ」
「許し...」
「謝罪と許しは、セットだ。謝罪だけでは、関係は修復されない」
晴が考えた。「相手が許してくれないと?」
「謝罪は一方的にできる。でも、和解は双方向だ」
「許すのは、難しい?」
「非常に。デリダは、真の許しは『許せないものを許すこと』だと言った」
晴が混乱した。「許せないのに許す?」
「論理的には矛盾だ。でも、それが許しの本質かもしれない」
美緒が静かに立ち、窓を開けた。風が入る。
サイモンが続ける。「許しは、負の感情を手放すこと」
「恨みを捨てる?」
「そう。自分のためでもある。恨みは自分を苦しめる」
晴が美緒を見た。「美緒は、恨んでない」
「彼女は、執着しない人だから」サイモンが言った。
「執着しないと、許しやすい?」
「仏教では、執着が苦しみの源とされる。許しは、執着からの解放だ」
晴が深呼吸した。「謝罪は、責任を認めて、関係を修復して、未来を約束する」
「そして、許しは、過去を手放して、新しい関係を始める」
美緒がこちらを見て、微かに微笑んだ。
晴が言った。「ありがとう、美緒」
サイモンが静かに言った。「謝罪と許しは、人間だけができる」
「なぜ?」
「過去を振り返り、未来を想像できるから。そして、関係を大切にするから」
晴が頷いた。「人はなぜ謝罪するのか。それは、人だから」
三人は静かに笑った。謝罪は弱さではなく、人間の強さだった。