「もう疲れた」
晴がノートを閉じた。
「どうしたの?」ノアが心配そうに聞く。
「問いばかりで、答えが出ない。何のために考えてるんだろう」
蓮が静かに言った。「ソクラテスも同じ経験をしたかもしれない」
「ソクラテス?」
「『無知の知』。知らないことを知っている、という状態」
晴が苦笑した。「それって、進歩してないってこと?」
「進歩の定義による」蓮が答えた。「知識が増えることが進歩なら、そうかもしれない。でも、問いが深まることも進歩だ」
「問いが深まる?」
ノアが補足した。「最初は『幸せとは何か』と聞く。次に『なぜ幸せを求めるのか』と聞く。さらに『求めること自体が正しいのか』と問う」
「階層が増えてる」晴が理解した。
「そう。表面的な問いから、根源的な問いへ」
「でも、根源に辿り着いたら終わり?」
蓮が首を振った。「根源はない。あるいは、根源自体が問いになる」
「無限後退?」
「そう。でも、それが悪いことなのか?」
晴が考え込んだ。「答えのない問いを立て続けるのは、意味がある?」
「なぜ意味を求める?」ノアが逆に問うた。
「...また問い?」晴が笑った。
「そう。問うことが人間の本質かもしれない」
蓮がノートに図を描いた。「動物は環境に適応する。人間も適応するが、同時に環境を問い直す」
「問い直す?」
「『これでいいのか』『もっと良い方法はないか』。現状に疑問を持つ」
ノアが続けた。「その疑問が、技術を生み、芸術を生み、哲学を生んだ」
「じゃあ、問いは創造の源?」
「そう言える」蓮が頷いた。
晴が窓の外を見た。「でも、答えが出ないと、不安になる」
「不安は自然だ」ノアが認めた。「確実性を求めるのは、生存本能だから」
「じゃあ、問い続けることは本能に反する?」
「ある意味ではね」蓮が言った。「安定を求める本能と、探求する本能の対立」
「両方ある?」
「両方ある。だから人間は葛藤する」
ノアが静かに言った。「でも、完全な答えがあったら?」
「あったら?」晴が聞き返す。
「全ての問いに答えが出て、もう疑問がなくなったら」
「...退屈?」
「そう。カントは、完全な知識は人間には不可能だと言った」
蓮が補足した。「不可能なだけじゃなく、望ましくないかもしれない」
「どうして?」
「問いがなくなったら、成長も止まる」
晴が理解し始めた。「問いは、動きを作る」
「そう。静止ではなく、運動」
ノアが付け加えた。「ヘラクレイトスの『万物は流転する』。変化こそが本質」
「問いも変化の一部?」
「問いが変化を駆動する」
晴が深呼吸した。「じゃあ、答えを求めるのは間違い?」
「間違いではない」蓮が言った。「でも、答えは最終地点じゃなく、次の問いへの入り口」
「終わりのない旅」
「そう。オデュッセイアのように」
ノアが微笑んだ。「でも、旅自体が目的になることもある」
「答えより、問うプロセス?」
「そう。デカルトの『方法序説』。どう考えるかが重要」
晴がゆっくり言った。「人はなぜ問いを立て続けるのか」
「それ自体が問いだね」蓮が笑った。
「答えは?」
「答えは、問い続けることが人間だから、かもしれない」
ノアが整理した。「動物は環境に答える。人間は環境に問いかける」
「問いが、人間を定義する?」
「定義する、とまでは言わないが、特徴の一つだ」
晴が立ち上がった。「じゃあ、疲れても問い続ける」
「疲れたら休んでいい」ノアが優しく言った。「問いは逃げない」
「逃げない?」
「むしろ、待ってる。準備ができたら、また向き合える」
蓮が静かに言った。「問いとの関係も、人間関係みたいなものだ」
「距離を取ったり、近づいたり」
「そう。無理に答えを出そうとすると、関係が壊れる」
晴が微笑んだ。「問いと仲良くする」
「良い表現だ」
「問いは敵じゃなく、相棒」
ノアが頷いた。「相棒として、一緒に歩く」
晴がノートを開き直した。「人はなぜ問いを立て続けるのか。それが人間だから」
「シンプルな答え」蓮が認めた。
「でも、シンプルな答えから、また新しい問いが生まれる」
「そう。それが哲学の営み」
三人は静かに座っていた。問いは終わらない。でも、それでいい。