「ありがとうって、なんで言えないんだろう」
海斗が机に突っ伏した。部室の隅で、彼は一人悩んでいた。
日和が静かに近づいた。「誰かにお礼を言いたいんですか?」
「昨日、ノート貸してもらったんだ。でも、今日会った時、何も言えなかった」
空が本を置いた。「なぜ言えなかったんですか?」
海斗が顔を上げた。「分からない。口を開こうとしたけど、変な感じがして」
日和が隣に座った。「それ、心理学的にはよくあることです」
「本当に?俺だけじゃないのか」
「全然」空が答えた。「素直な感情表現を阻むメカニズムがあるんです」
「メカニズム?」
日和が説明し始めた。「一つは、脆弱性への恐れ。感謝を示すことは、相手に頼っていたことを認めること」
「それが何か問題なの?」
「プライドが傷つくと感じる人もいます」空が補足した。「特に、独立性を重視する文化では」
海斗が考えた。「確かに、助けてもらったって認めるのは、ちょっと悔しい気もする」
「それが防衛機制の一つ」日和が言った。「自尊心を守るために、素直な気持ちを抑えてしまう」
「でも、相手は助けてくれたのに」
「そう。だから葛藤が生まれる」空がノートに図を描いた。「本心は感謝したい。でも、防衛機制が邪魔をする」
海斗が首を傾げた。「じゃあ、どうすればいいんだ?」
日和が微笑んだ。「まず、そのメカニズムに気づくこと。今、海斗さんは気づきましたね」
「気づいただけで解決する?」
「完全には解決しないかもしれません」空が正直に言った。「でも、理解することで選択肢が増える」
海斗が真剣な表情をした。「選択肢?」
「感謝を伝えるか伝えないか。意識的に選べるようになる」日和が説明した。「無意識の反応に支配されるのではなく」
「でも、伝えようとすると、まだ抵抗がある」
「それも自然です」空が認めた。「長年の習慣は簡単には変わらない」
日和が別の角度から話した。「海斗さん、逆に誰かから感謝された時、どう感じますか?」
「嬉しい。当たり前だけど」
「なら、相手もきっと同じです」
海斗が静かになった。「そうだよな。俺が感謝を伝えれば、相手も嬉しいはず」
「そう考えると、伝えない方が損ですね」空が言った。
「でも、タイミング逃したんだ。今更言うのは変じゃない?」
日和が首を横に振った。「遅すぎることはありません。むしろ、時間が経ってからの感謝は、より深い印象を与えることも」
「本当に?」
「考え抜いた末の言葉だと伝わるから」空が補足した。
海斗が立ち上がった。「よし、明日言ってみる」
「頑張って」日和が励ました。
「でも」海斗が座り直した。「他にも素直になれないことがある」
「例えば?」
「謝ることとか、弱音を吐くこととか」
空が頷いた。「それも同じメカニズムです。脆弱性を見せることへの恐れ」
日和が優しく言った。「でも、素直さは弱さじゃありません。むしろ、強さです」
「強さ?」海斗が驚いた。
「自分の感情を認め、それを表現する勇気」空が説明した。「それは心理的な成熟の証拠です」
海斗が考え込んだ。「そう考えたことなかった」
「完璧な人間なんていません」日和が続けた。「助けが必要な時もある。それを認められることが、本当の強さ」
空がノートに書いた。「素直さ=自己受容+他者信頼」
海斗がそれを見た。「自分を受け入れて、相手を信頼する」
「そう。両方が必要です」
海斗が深呼吸した。「難しいけど、やってみる価値はありそうだ」
日和が微笑んだ。「少しずつで大丈夫です」
「今日、ここで話せたことも、一歩ですよ」空が言った。
海斗が照れくさそうに笑った。「確かに。普段なら、こんなこと誰にも言わない」
「それが自己開示です」日和が認めた。「信頼できる場所で、少しずつ練習する」
窓の外で夕日が沈み始めた。
「ありがとう、二人とも」海斗が自然に言った。
日和と空が驚いた顔をした。
「あ」海斗が気づいた。「今、素直に言えた」
「素晴らしい」日和が拍手した。
空が笑った。「最初の一歩ですね」
海斗が嬉しそうに頷いた。素直になることは難しい。でも、不可能じゃない。今日、そのことを学んだ。