「なぜ水分子は曲がってるんですか?」
奏が分子模型を見ながら尋ねた。
玲が考えながら答える。「電子対の反発。VSEPR理論で説明できる」
「VSEPR?」
「原子価殻電子対反発理論。電子対は互いに反発し合うから、できるだけ離れた位置を取る」
ミリアが図を描き始めた。中心に酸素、周りに電子対。
「酸素の周りには四つの電子対がある。二つは結合対、二つは孤立電子対」
「四つなら、正四面体配置が最も離れる」玲が続ける。
「でも」奏が異議を唱えた。「水分子は直線じゃなくて折れ線ですよね」
「そう。なぜなら、孤立電子対と結合対では、反発の強さが違うから」
ミリアが詳しく図示した。電子対の大きさが異なる。
「孤立電子対は、一つの原子に引きつけられている」玲が説明する。
「でも結合対は、二つの原子に引きつけられて、より狭い空間に制限される」
「だから孤立電子対の方が、空間を広く占める」
奏が理解し始めた。「孤立電子対が結合対を押しのける?」
「正確には、より強く反発する。その結果、H-O-H角度が109.5度より小さくなる」
「104.5度ですね」
「そう。孤立電子対のスペースが広いから」
ミリアが別の例を書いた。「NH₃: 107度、CH₄: 109.5度」
「アンモニアも、孤立電子対が一つあるから、角度が小さくなる」
「メタンは全て結合対だから、正四面体」
奏が次々と質問した。「じゃあ、CO₂はなぜ直線?」
「炭素の周りに電子対が二つだけ。二つなら、180度が最も離れる」
「C=O二重結合が二つ、反対方向を向く」
玲が補足した。「二重結合も、VSEPR理論では一つの電子対グループとして扱う」
「三重結合も同じ」
ミリアが表を作った。電子対の数と、基本形状の対応。
「二つ:直線、三つ:平面三角、四つ:正四面体、五つ:三方両錐、六つ:八面体」
「基本形状から、孤立電子対の位置によって実際の形が決まる」
奏が難しい例を出した。「SF₆は?」
「六つのフッ素が硫黄の周りに八面体配置」玲が答える。
「六つの結合対だけ、孤立電子対なし」
「だから完璧な八面体」
透真が入ってきて、話に加わった。「XeF₄は面白いよ」
「キセノンの周りに六つの電子対。四つが結合対、二つが孤立電子対」
ミリアが模型を組み立てた。「孤立電子対は、八面体の対向位置」
「そうすると、四つのフッ素は平面正方形配置になる」
奏が感動した。「孤立電子対の位置も、反発最小化で決まるんですね」
「そう。孤立電子対同士は、最も遠い位置を取る」
玲が生体分子の例を出した。「タンパク質の構造も、同じ原理」
「ペプチド結合は平面。部分的な二重結合性があるから」
「アミノ酸側鎖の配置は、立体障害を避ける」
ミリアが補足した。「水素結合も、角度に依存する」
「直線的な水素結合が最も強い」
「タンパク質のαヘリックスやβシートは、水素結合の角度が最適化されている」
奏が真剣に聞いた。「分子の形が、機能を決めるんですか?」
「そう」玲が強調した。「酵素の活性部位、受容体と リガンドの結合、全て形状補完性」
「鍵と鍵穴の関係」
透真が例を挙げた。「ヘモグロビンの酸素結合曲線。協同性は構造変化による」
「一つの酸素が結合すると、構造が変わって、次の酸素が結合しやすくなる」
ミリアが静かに言った。「形は機能の言語」
玲が頷く。「分子の形状は、化学的性質を決定する」
「同じ組成でも、形が違えば性質が違う。異性体の本質」
奏がノートにまとめた。「結合角度は、電子対の反発によって決まる。そして、角度が分子の性質と機能を決める」
ミリアが最後に書いた。「Geometry is destiny」
「形状は運命」
窓の外では、雪が降り始めた。六角形の結晶。氷の構造も、水素結合の角度で決まる。結合角度は、物質の美しさと機能を創り出している。