「まだ?」
透が試験管を覗き込んだ。三十分経っても、反応は始まらない。
「遅すぎる」奏が不満そうに言った。
零が穏やかに答える。「反応速度は、様々な要因で決まる」
「じゃあ、これが遅い理由は?」
「活性化エネルギーが高いんだろう。反応するために必要なエネルギーの壁」
透が首をひねった。「壁?」
零は図を描いた。山のような曲線。「反応物から生成物へ行くには、エネルギーの山を越えなきゃいけない。その頂上が遷移状態」
「山登り?」奏が興味を持った。
「そう。温度を上げれば、分子の運動エネルギーが増えて、山を越えやすくなる」
透がすぐさま加熱器に手を伸ばした。
「待て」零が止めた。「急激な加熱は危険。それに、生体反応では使えない方法だ」
「じゃあ、生き物はどうしてるの?体温は一定なのに、反応は速い」
零が微笑んだ。「酵素だ。触媒として働く」
「触媒?」
「反応を速くするけど、自分は変化しない物質。活性化エネルギーを下げる」
奏がノートに書いた。「山を低くするってこと?」
「正確には、別の低い道を作る。トンネルのように」
透が興奮した。「すごい!じゃあ、酵素を入れれば速くなる?」
「理論上はね。でも、基質特異性という問題がある」
「基質特異性?」
零が説明を続けた。「酵素は、特定の分子にしか作用しない。鍵と鍵穴の関係だ」
奏がペンを回しながら考えた。「この反応に合う酵素があるかどうか…」
「たぶんない。人工的な反応だから」
透がため息をついた。「じゃあ、どうすれば?」
「濃度を上げる。反応物の濃度が高ければ、分子同士の衝突頻度が増える」
「でも、もう限界まで入れたよ」
零が試験管を見た。「pHも重要だ。水素イオン濃度が反応速度に影響する」
奏が試薬棚を見た。「酸を加える?」
「慎重に。少しずつ」
透がピペットで酸を一滴加えた。しばらく待つ。何も起きない。
「ダメだ」
零が考え込んだ。「表面積かもしれない」
「表面積?」
「固体と液体の反応なら、固体の表面積が大きいほど速い。接触面が増えるから」
奏が試験管を振った。「混ぜればいい?」
「攪拌は効果的。でも、この場合は両方液体だから…」
透がふと思いついた。「阻害物質が入ってたりして?」
零の目が光った。「鋭い。不純物が反応を妨げることもある」
「じゃあ、どうやって調べる?」
「新しい試薬で試すか、精製するか」
奏が新しい試験管を用意した。零が慎重に試薬を混ぜる。
今度は、すぐに色が変わり始めた。
「速い!」透が叫んだ。
「やはり不純物だった。おそらく金属イオンが触媒毒として働いていた」
奏が記録を取る。「触媒毒?」
「触媒の働きを止める物質。酵素でも同じことが起きる」
透が前の試験管と見比べた。「こんなに違うんだ」
零が整理した。「反応速度は、温度、濃度、触媒、pH、表面積、阻害物質…多くの要因に依存する」
「複雑だね」奏がつぶやいた。
「だからこそ、生命は精密に制御できる。必要なときに必要な速度で反応を起こせる」
透が納得した顔をした。「遅いのは、誰のせいでもなかった。条件のせいだ」
「実験の教訓」零が言った。「結果を急がず、要因を一つずつ検証する」
二つの試験管が並んでいる。一つは静止し、一つは活発に変化している。同じ反応が、条件次第でまったく違う速度を持つ。
「化学って、思ったより繊細なんだ」奏が感心した。
零が頷いた。「そして、それが生命を可能にしている」