「グループ課題、誰かがサボったせいで評価が下がった」
晴が不満そうに言った。蓮とサイモンが顔を見合わせる。
「誰の責任だ?」蓮が聞いた。
「サボった人でしょ?当然」
「本当に?」サイモンが問い返した。
「え、違うの?」晴が混乱した。
蓮が分析し始めた。「責任には、因果的責任と道徳的責任がある」
「どう違うの?」
「因果的責任は、結果を引き起こしたこと。道徳的責任は、非難されるべきかどうか」
サイモンが例を出した。「子供が石を投げて窓を割った。因果的には子供の責任。でも、道徳的には?」
「子供だから、完全には責任を負えない?」晴が考えた。
「そう。責任能力という概念がある」蓮が説明した。
「じゃあ、サボった人に事情があったら?」
「それを考慮すべきだ」サイモンが言った。「病気、家庭の問題、誤解」
晴が抵抗した。「でも、結果は変わらない。評価は下がった」
「責任と結果は別」蓮が区別した。「結果は事実。責任は評価」
サイモンが深く問うた。「そもそも、人は自分の行動に責任を負えるのか?」
「当たり前でしょ?」晴が答えた。
「決定論を考えてみよう」蓮が提案した。「全ての出来事は、過去の原因によって決定されている」
「それだと、自由意志がない?」
「そう。自由意志がなければ、責任も負えない」
晴が反論した。「でも、私たちは選択してる。今も話すか黙るか選んでる」
サイモンが頷いた。「両立論という立場がある。決定論と自由意志は矛盾しない」
「どうやって?」
「自由とは、外部からの強制がないこと。内部の原因で行動するなら、それは自由だ」
蓮が補足した。「欲望や価値観も自分の一部。それに基づく選択は、自由意志と言える」
晴が考えた。「じゃあ、サボった人は自分の欲望に従った。だから責任がある?」
「複雑だ」サイモンが言った。「その欲望は、環境や教育の産物かもしれない」
「じゃあ、誰も責任を負わない?」
「極端な決定論ではそうなる」蓮が認めた。「でも、実用的には責任を認める必要がある」
「なぜ?」
「社会秩序のため。責任がなければ、ルールが機能しない」
サイモンが別の角度から言った。「集団の責任もある」
「集団?」
「グループ課題なら、全員に責任がある。一人のサボりを防げなかったのは、グループ全体の問題だ」
晴が驚いた。「でも、私たちは止めようとした」
「それでも、結果的に防げなかった。連帯責任という考え方だ」
蓮が慎重に言った。「ただし、連帯責任は不公平を生む。無関係な人まで罰する」
「じゃあ、どうすれば?」晴が聞いた。
サイモンが答えた。「責任の度合いを区別する。主犯と従犯、積極的関与と消極的放置」
「法律みたいだね」
「法律は、責任論の実践だ」蓮が説明した。「故意、過失、結果的加重」
晴が整理した。「責任は、行為と意図と能力で決まる?」
「基本的にはそう」サイモンが頷いた。「でも、文化によって異なる」
「文化?」
「西洋は個人責任を重視する。東洋は集団責任を重んじる傾向がある」
蓮が補足した。「日本の『世間体』や『連帯保証』は、集団責任の表れだ」
晴が考え込んだ。「じゃあ、正解はない?」
「状況による」サイモンが言った。「誰に責任を負わせるかは、目的次第だ」
「目的?」
「罰したいのか、再発防止したいのか、被害を補償したいのか」
蓮が厳密に言った。「責任は、社会的構築物だ。絶対的な基準はない」
晴がゆっくり言った。「でも、責任を認めることは大事」
「なぜそう思う?」サイモンが聞いた。
「責任を負うことで、次は気をつける。成長する」
「それは、責任の教育的機能だ」蓮が認めた。
サイモンが微笑んだ。「責任は重荷だが、同時に人間の尊厳でもある」
「尊厳?」
「責任を負えるということは、自律していること。動物には責任がない」
晴が頷いた。「責任は、自由の裏側」
「良い表現だ」蓮が言った。
三人は静かになった。責任は重いが、それを担うことで、人は人になる。