「チャンスって、誰にでも来るものなの?」
晴がふと聞いた。図書館で勉強していた蓮が、ペンを置く。
「何か思うことがあった?」
「さっき、奨学金の案内を見た。でも、締め切りが明日で」
蓮が考え込んだ。「それは、チャンスとは言えないかもしれない」
「え、どうして?」
「チャンスというのは、準備された者が掴めるもの。明日締め切りで準備できないなら、それは君にとってのチャンスではない」
晴が納得できない顔をした。「でも、情報は平等に来たよ」
「情報とチャンスは違う」蓮がノートに図を描いた。「情報は外部から来る。チャンスは、情報と準備の交差点にある」
「交差点?」
「そう。ラテン語で『チャンス』を意味する『occasio』は、『適切な時機』という意味だ。時機が適切かどうかは、受け手次第」
晴がペンを回した。「じゃあ、準備してない人には、チャンスは来ない?」
「正確には、チャンスが来ても認識できない」
「認識?」
蓮が例を出した。「優れた研究者が学会で発表する。専門家にとっては協力のチャンス。でも、素人には単なる講演」
「...同じ情報でも、受け取り方が違う」
「そう。カント哲学で言えば、経験は主体の認識枠組みを通して成立する。チャンスも同じだ」
晴が考え込んだ。「でも、それって不公平じゃない?準備できる環境にいる人だけが得をする」
蓮が頷いた。「鋭い指摘だ。それが構造的不平等の問題」
「構造的?」
「個人の能力ではなく、社会構造がチャンスの分配を決めてしまう」
晴が静かに言った。「じゃあ、『チャンスは平等』って嘘?」
「嘘ではない。でも、不完全な真実」蓮が丁寧に説明した。「情報は平等に来るかもしれない。でも、それをチャンスに変える力は、平等じゃない」
「どうすればいい?」
「二つの道がある」蓮が指を立てた。「一つは、自分を準備する。もう一つは、構造を変える」
「準備って、具体的には?」
「知識、技能、ネットワーク。そして、何がチャンスか見抜く感度を磨く」
晴が真剣な顔になった。「感度?」
「偶然を必然に変える力だ。パスツールが言った。『チャンスは準備された心にのみ訪れる』」
「準備された心...」
「でも」蓮が続けた。「準備だけでは不十分。なぜなら、準備の機会自体が不平等だから」
晴が気づいた。「だから、構造を変える必要がある」
「そう。個人の努力と、社会の改革。両方が必要だ」
二人はしばらく黙った。
晴が小さく笑った。「今日のこの会話も、私にとってチャンスかもしれない」
「どういう意味?」
「蓮の考えを聞けた。これで、チャンスの本質が少し分かった」
蓮が微笑んだ。「それは、君が準備していたからだ」
「準備?」
「疑問を持つこと。それが、最初の準備だ」
晴がノートに書き留めた。「チャンスは誰に訪れるか。答えは『問いを持つ者に』」
「それも一つの答えだ」蓮が認めた。「完璧な答えはない。でも、問い続けることで、チャンスを掴む確率は上がる」
窓の外で、風が木々を揺らした。偶然の風が、枝を新しい方向へ導く。
準備された者は、その風を読む。そして、構造を変えようとする者は、風向きを変えようとする。
晴は、両方を目指すことにした。