考える私は誰なのか

思考する主体とは何か。レンと晴が、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を起点に、自己の本質を探る。

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「『我思う、ゆえに我あり』って、本当に正しいの?」

晴がレンに聞いた。

「デカルトの命題だね」レンが頷いた。「疑問がある?」

「考えている『私』って、誰?」

レンが興味深そうに見た。「良い問いだ。自己言及的になっている」

「考える私と、考えられる私は、同じ?違う?」

「哲学者が何千年も悩んできた問題だ」

晴がノートを開いた。「どう考えればいい?」

「まず、『考える』という行為を分解しよう」レンがホワイトボードに書いた。

「思考のプロセス:

  1. 何かを認識する
  2. それについて判断する
  3. 結論を出す」

「このプロセスを行う『私』がいる?」

「そう仮定している。でも、それは本当か?」

晴が混乱した。「考えているのに、私がいない?」

「思考が存在する、は確実。でも、それを統括する『私』の存在は?」

「でも、私は今、ここにいる」晴が自分を指差した。

「それは身体だ」レンが区別した。「身体と、思考主体は同じか?」

「違うの?」

「ある哲学者は違うと言う。思考は脳の活動だが、『私』という感覚は別物かもしれない」

晴が頭を抱えた。「じゃあ、私って何?」

「それを探るのが哲学だ」

「でも、実感としては私はいる」

レンが微笑んだ。「その実感を『現象学』は重視する。疑えない経験として」

「じゃあ、私はいる?」

「経験としては、いる。でも、その『私』の正体は謎だ」

晴が窓の外を見た。「考えれば考えるほど、分からなくなる」

「それが自己反省の特徴だ」レンが言った。「観察しようとすると、観察する主体が立ち現れる。無限後退」

「どこまで行っても、観察者がいる?」

「そう。だから、『私』は捉えられない」

晴が疑問を持った。「じゃあ、デカルトは間違ってる?」

「間違ってはいない。『思考が存在する』は確実だ。でも、『私が思考する』には飛躍がある」

「飛躍?」

「思考の存在から、思考主体の存在を導いている。必然じゃないかもしれない」

晴が考え込んだ。「思考はあるけど、それを行う『私』はいない?」

「仏教の『無我』に近い」

「無我?」

「固定した自己は存在しない、という思想」

晴が驚いた。「じゃあ、私は幻?」

「幻というより、プロセス」レンが説明した。「川のようなもの。常に流れている。固定した実体はない」

「でも、私は昨日の私と、同じ人間だと思う」

「記憶が連続性を生む」レンが頷いた。「でも、記憶も変化する。完全に同じではない」

晴が笑った。「じゃあ、考える私は、瞬間ごとに違う人?」

「ある意味で」

「それって、怖くない?」

レンが静かに言った。「怖いと感じるか、自由と感じるか」

「自由?」

「固定した自己がないなら、いつでも変われる」

晴が目を輝かせた。「なるほど。縛られない?」

「過去の自分に縛られない。未来の自分も、自由に選べる」

「でも、責任は?過去の行動の責任」

「良い指摘だ」レンが認めた。「社会的には、連続した自己を仮定する必要がある」

「じゃあ、『私』は、社会的な構築物?」

「一面ではそうだ」

晴が深呼吸した。「難しい。私は、いるのか、いないのか」

「両方かもしれない」レンが微笑んだ。「レベルによる。経験的にはいる。形而上学的には謎」

「レベル分け?」

「実用的には『私』を前提にする。でも、哲学的には疑問を保つ」

晴がノートに書いた。「考える私は、問い続けられる存在」

「良い定義だ」

「じゃあ、レン。あなたは誰?」

レンが笑った。「良い質問だ。答えは、まだ探している」

「一緒に探そう」

「ああ。それが哲学の営みだ」

二人は黙って考えた。考える私は、誰なのか。その問いが、私を作る。