「電子が歩く?」
透真が不思議そうに聞いた。
「比喩だけどね」零が答えた。「電子伝達系。電子が分子から分子へ移動する」
「なんで移動するの?」
「エネルギー準位が違うから。高いところから低いところへ流れる」
奏がノートに書いた。「水みたい?」
「良い比喩。位置エネルギーが化学エネルギーに変わる」
透真が質問した。「どこを歩くの?」
「ミトコンドリアの内膜。複合体Iから複合体IVまで」
零が図を描いた。「NADHが電子を渡す。最終的に酸素が受け取る」
「酸素?」
「最終電子受容体。水になる」
奏が混乱した。「電子だけが移動するの?」
「多くの場合、水素原子として。プロトンと電子が一緒に」
「でも、時々分かれる?」
「そう。それが重要」零が強調した。
透真が興奮した。「プロトンはどこへ?」
「膜間腔に汲み出される。濃度勾配ができる」
「勾配?」
「プロトンの濃さが、膜の両側で違う。これがエネルギー貯蔵の形」
奏が理解し始めた。「電池みたい?」
「正確。化学浸透圧説。ピーター・ミッチェルの発見」
零が続けた。「プロトンは膜を通れない。でも、ATP合成酵素を通れる」
「通るとどうなる?」
「回転する。文字通り、分子機械」
透真が驚いた。「回転?」
「そう。プロトンの流れが、タービンを回す。その力でATPを合成する」
奏が感動した。「発電所みたい」
「生体内発電所だ」零が認めた。
透真が聞いた。「電子、気まぐれなの?」
「標準還元電位で決まる。どの分子が電子を受け取りやすいか」
「還元電位?」
「電子の親和性。値が大きいほど、電子を引き寄せる」
零が表を見せた。「NADHは低い。酸素は高い」
「だから酸素に流れる?」
「そう。自然な流れ」
奏が質問した。「途中で止まらないの?」
「複合体が順番に配置されてる。還元電位が段階的に上がる」
「段階的?」
「少しずつエネルギーを取り出すため。効率的な設計」
透真がつぶやいた。「電子の階段?」
「良い表現」零が笑った。
奏が別の疑問を持った。「電子伝達系が止まったら?」
「ATPができない。細胞は死ぬ」
「そんなに重要?」
「酸素呼吸の核心。真核生物が繁栄できた理由」
零が説明した。「シアン化物は、複合体IVを阻害する。だから猛毒」
透真が震えた。「電子の流れを止める?」
「そう。酸素があっても使えない」
奏が考え込んだ。「電子の散歩、気まぐれじゃないですね」
「厳密に制御されてる。でも、量子的にはランダムな側面もある」
「量子的?」
「電子トンネリング。古典物理では説明できない現象」
透真が目を輝かせた。「量子力学?」
「生化学でも必要だ。電子は波でもあり粒でもある」
零が続けた。「鉄硫黄クラスター、シトクロム…電子を運ぶ補因子」
「補因子?」
「タンパク質だけでは不十分。金属イオンやヘムが電子を運ぶ」
奏が感心した。「電子のリレー」
「正確。バトンを渡しながら、エネルギーを取り出す」
透真が聞いた。「活性酸素って、ここで生まれる?」
「鋭い。電子が途中で酸素に漏れると、スーパーオキシドができる」
「危険?」
「細胞にダメージを与える。老化の原因の一つとも言われる」
奏が深呼吸した。「電子の散歩、命を支えてる」
「でも、時々暴走する」零が静かに言った。
「完璧じゃない?」
「生命は完璧じゃない。トレードオフがある」
透真がつぶやいた。「気まぐれも、ちょっとはある」
「そうかもね」零が微笑んだ。
奏が窓の外を見た。「今も、体中で電子が散歩してる」
「何兆回も、毎秒」
「見えない旅」透真が言った。
三人は、見えない電子の流れを想像した。気まぐれに見えて、秩序がある。