「ノイズって、悪者なんですか?」
由紀の質問に、葵が興味深そうに答えた。「視点による。ノイズの起源を知ると、別の見方ができる」
陸が雑音だらけの音声ファイルを再生した。「これ、昨日録音した。何言ってるか分からない」
「典型的な環境ノイズだ」葵が説明した。「背景音、風、他の会話。全てが混ざってる」
ミラがノートに書いた。「Thermal noise, quantization noise, interference」
「そう。ノイズには複数の源がある」葵がホワイトボードに分類を描いた。
「まず、熱雑音。全ての電子機器が発する。温度があれば、電子がランダムに動く。これが避けられないノイズだ」
由紀が考えた。「じゃあ、冷やせば減りますか?」
「理論的にはね。絶対零度なら熱雑音はゼロ。でも実際は不可能」
陸が手を挙げた。「量子化ノイズって何?」
「デジタル変換のときに生じる。アナログ信号を離散値に丸めると、情報が失われる」
葵が図を描いた。連続な曲線を、階段状に近似している。
「この丸め誤差が量子化ノイズ。精度を上げればノイズは減るけど、データ量が増える」
「またトレードオフだ」陸が苦笑した。
ミラが別の例を書いた。「Interference: multiple signals overlap」
「干渉」葵が頷いた。「Wi-Fiとか、複数の送信機が同じ周波数を使うと、信号が混ざる。これもノイズの一種」
由紀が興味津々だった。「じゃあ、ノイズを完全になくすことはできないんですか?」
「できない。シャノンの通信路符号化定理が示すのは、『ノイズがあっても、通信容量以下なら誤りなく伝えられる』ということ。ノイズの存在を前提にしてる」
「ノイズと共存する…」
「そう。完璧な無音室でも、熱雑音は残る。宇宙でも、宇宙マイクロ波背景放射がある。ノイズはどこにでもある」
陸がふと思いついた。「じゃあ、ノイズを利用できないの?」
葵が目を輝かせた。「鋭い!ディザリングという技術がある。意図的にノイズを加えることで、量子化誤差を分散させる」
「ノイズを加える?逆説的だ」
「画像処理でよく使われる。細かいノイズを加えると、階調がなめらかに見える」
ミラが補足した。「Stochastic resonance: noise can enhance signal」
「確率共鳴」葵が説明した。「適度なノイズが、弱い信号を検出しやすくする現象。生物の感覚器官でも起こる」
由紀がノートに整理した。「ノイズは避けられないけど、使い方次第で味方にもなる」
「まさに。情報理論は、ノイズを敵視しない。むしろ、ノイズの性質を理解して、最適な通信方法を見つける」
陸が録音を聞き直した。「このノイズも、分析すればパターンが見えるかも」
「そう。ノイズの統計的性質が分かれば、フィルタリングできる。白色雑音なのか、ピンクノイズなのか、特性が重要だ」
ミラが静かに言った。「Noise is information about the channel」
四人が黙った。深い洞察だった。
「ノイズ自体が、通信路の情報を運んでる」葵が言い換えた。「どんなノイズかを知ることが、通信路を理解する鍵だ」
由紀が微笑んだ。「ノイズって、悪者じゃなくて、通信の一部なんですね」
「完璧な静寂より、ノイズまみれの現実の方が、情報理論的には面白い」
陸が笑った。「じゃあ、俺もノイズの一種?」
「ある意味ね」葵が認めた。「でも、必要なノイズだ」
部室の外から、街の雑音が聞こえた。それもまた、情報の一部だった。