「希望なんて、どこにもない」
ノアが窓際で呟いた。彼女らしくない弱気な言葉だった。
「何があった?」晴が近づいた。
「努力しても、結果が出ない。何のために頑張ってるのか分からない」
サイモンが静かに言った。「パンドラの箱の話を知ってるか?」
「災いが飛び出して、最後に希望が残った?」
「そう。でも、なぜ希望が箱に残ったのか、解釈は分かれる」
ノアが興味を示した。「どう分かれるの?」
「一つは、希望も災いの一つだから箱に閉じ込められた、という解釈」
「希望が災い?」
「根拠のない期待は、人を苦しめるという考え方だ」
晴が補足した。「期待が裏切られるから、絶望する」
「じゃあ、希望を持たない方がいい?」
「それが一つの哲学だ」サイモンが認めた。「ストア哲学。期待せず、受け入れる」
美緒が静かに入ってきて、紙を取り出した。何か絵を描いている。
ノアが続けた。「でも、希望がなければ、どうやって生きるの?」
「現在に集中する」サイモンが答えた。「未来への期待ではなく、今この瞬間を充実させる」
「それで満たされる?」
「満たされるかどうかではなく、それしかないという諦観」
晴が別の角度から聞いた。「じゃあ、もう一つの解釈は?」
「希望は災いではなく、人間に残された唯一の力だという解釈」
「力?」
「どんな状況でも、未来を想像する力。それが希望」
美緒が絵を見せた。暗い空に、小さな星が一つ。
「美緒の答え?」ノアが聞く。
美緒は頷いた。そして、星の部分を指差した。
晴が理解した。「どんなに暗くても、光はある」
「でも、その光が届くとは限らない」ノアが反論した。
「届くかどうかではなく、光っているという事実」サイモンが言った。
「それが希望?」
「希望の一つの形だ」
蓮が部屋に入ってきた。「何の話?」
「希望について」晴が答えた。
「タイムリーだ」蓮がノートを開いた。「ちょうど、ブロッホの『希望の原理』を読んでた」
「ブロッホ?」
「20世紀の哲学者。希望を人間の根本的な態度だと考えた」
ノアが尋ねた。「どういうこと?」
「人間は、まだ存在しないものへ向かって生きる。それが希望の本質」
「未来志向?」
「そう。でも、単なる楽観主義じゃない。『教育された希望』という概念がある」
「教育された希望?」
「現実を見据えた上での希望。盲目的な期待じゃなく、可能性を見出す力」
晴が整理した。「絶望的な現実を認めつつ、それでも可能性を探す」
「その通り」蓮が頷いた。
美緒がまた絵を描いた。今度は、星から地面へ線が伸びている。
「繋がり?」サイモンが解釈した。
美緒が頷く。
「希望は孤立した光じゃなく、私たちと繋がっている」晴が言葉にした。
ノアが深く考え込んだ。「じゃあ、希望はどこに宿るのか」
「外部にあるものじゃない」蓮が答えた。「内部、つまり主体の態度に宿る」
「私の中?」
「そう。状況が希望を生むのではなく、状況への向き合い方が希望を生む」
サイモンが付け加えた。「フランクルのアウシュビッツでの経験。極限状況でも、態度の自由は残る」
「態度の自由?」
「どう意味づけるか、どう向き合うか。それは奪えない」
ノアが静かに言った。「でも、希望を持つのは疲れる」
「疲れる」晴が認めた。「だから、休んでいい」
「休んだら、希望は消える?」
「消えない」美緒がノートに書いた。「種のように眠る」
「種?」
蓮が説明した。「潜在的な可能性として残る。いつでも芽吹ける」
「じゃあ、今は絶望していてもいい?」
「絶望も大事」サイモンが言った。「絶望を経験することで、希望の意味が分かる」
「対比?」
「そう。光と影のように」
ノアが立ち上がった。「希望はどこに宿るのか」
「問いかける、その行為の中に」晴が答えた。
「問うこと自体が希望?」
「そう。諦めたら、問わない」
蓮が静かに言った。「希望は約束じゃない。可能性への開かれた姿勢だ」
「保証はない」
「ない。でも、可能性はゼロじゃない」
美緒が最後の絵を描いた。星から複数の線が伸び、地面で輪を作っている。
「繋がりが、希望を支える」サイモンが読み取った。
「一人じゃない」晴が続けた。
「孤立した希望は脆い。でも、共有された希望は強い」
ノアが微笑んだ。「みんなが、私の希望?」
「私たちが、お互いの希望」
蓮が頷いた。「希望は個人の内部にあるが、他者との関係で育つ」
「矛盾してる?」
「矛盾してるけど、それが現実」
ノアが窓の外を見た。雲の切れ間から、光が差している。
「希望はどこに宿るのか。ここに」ノアが自分の胸を指した。
「そして、ここに」晴がノアの手を取った。
「そして、ここに」美緒が静かに二人の手に触れた。
サイモンが微笑んだ。「希望の在り処は、探すものじゃなく、作るものだ」
四人は静かに座っていた。希望は見えないが、確かにそこにあった。