「暗い部屋、怖くない?」
晴が聞いた。部活の後、夕暮れの教室。
「少し」ノアが正直に答えた。「でも、なぜ怖いのか考えると面白い」
「なぜ?」
「恐怖は、どこから来るのか。物理的な闇自体は害がないのに」
晴が考えた。「見えないから?何があるか分からないから?」
「不確実性への恐怖」ノアが頷いた。「人間は、未知を恐れる」
「本能的に?」
「進化心理学的にはそうだ。暗闇には捕食者が潜む可能性があった」
晴が納得した。「だから遺伝子に刻まれてる」
「でも」ノアが続ける。「人間の恐怖は、それだけじゃない」
「他に何が?」
「想像力による恐怖」
晴が首を傾げた。「想像?」
「動物は、目の前の脅威にしか反応しない。でも人間は、『もしかしたら』を考える」
「未来を想像するから?」
「そう。まだ起きていない危険を、心の中で作り出す」
晴がゾクッとした。「それって、怖いことを増やしてる?」
「ある意味では。ハイデガーは、人間を『死へと向かう存在』と呼んだ」
「死?」
「人間だけが、自分がいつか死ぬと知っている。その認識が、根源的な不安を生む」
晴が静かになった。「死の恐怖」
「それは本能ではない。知性がもたらす恐怖だ」
「知性が、恐怖を生む?」
ノアが窓を見た。「サルトルは言った。『実存は本質に先立つ』」
「難しい...」
「人間には、決まった本質がない。だから、自分で自分を作らなければならない。その自由が、不安を生む」
晴が理解し始めた。「何になるか分からないから、怖い?」
「選択の責任。失敗の可能性。それが実存的不安だ」
「じゃあ、恐怖は人間だけのもの?」
「複雑な恐怖はね。動物の恐怖は単純だ。目の前の脅威に対する即座の反応」
晴が考えた。「人間の恐怖は、時間と関係してる?」
「鋭い。過去の記憶、未来の予測。時間意識が恐怖を作る」
「トラウマも?」
「そう。過去の恐怖体験が、現在の恐怖を生む。実際の危険がなくても」
晴が深呼吸した。「じゃあ、恐怖は幻?」
「いや、実在する。心の中で」ノアが真剣に言った。「主観的現実は、客観的現実と同じくらい真実だ」
「感じたら、それは本物?」
「感情に、偽物はない。全て本物の体験だ」
晴が笑った。「なんか、救われる」
「恐怖を感じることを、恥じる必要はない」
「でも」晴が聞いた。「恐怖を克服する方法は?」
ノアが考えた。「それは難しい問いだ」
「ない?」
「完全にはなくせない。でも、理解することで、少し軽くなる」
「理解?」
「なぜ怖いのか。何を恐れているのか。言語化すること」
晴がノートを開いた。「今の恐怖を書いてみる?」
「試してみて」
晴が書き始めた。「将来が見えない不安。失敗する恐怖。嫌われる恐怖...」
「それらは全て、想像上のものだ」
「でも、リアル」
「だからこそ、言語化が重要。形のない恐怖に、形を与える」
晴が書き続けた。「...少し、楽になった気がする」
「言葉にすると、距離ができる」ノアが微笑んだ。「主体と客体に分かれる」
「私と、私の恐怖」
「そう。同一化していたものを、観察できるようになる」
晴が窓の外を見た。暗くなってきた。
「今、暗闇が少し平気」
「それは、暗闇を理解したから」
「何も変わってないのに」
「認識が変われば、世界が変わる」ノアが静かに言った。「カントの言う通りだ」
「恐怖は、心が作る?」
「そして、心が変えられる」
晴が立ち上がった。「帰ろう。暗い道も、一緒なら平気」
ノアが笑った。「それも一つの克服法。共にいること」
「恐怖は、孤独と関係してる?」
「深い洞察だ。多くの恐怖は、一人であることの不安から来る」
二人は教室を出た。廊下は暗い。でも、隣に誰かがいる。
恐怖は消えない。でも、理解し、共有することで、生きていける。
それが、人間の強さかもしれない。