「ムカつく!」
晴が部室に入るなり叫んだ。
蓮が冷静に聞く。「何があった?」
「図書館で、順番を抜かされた。しかも謝りもしない」
「それで怒ってるんだね」
「当然でしょ!」
乃愛が静かに介入した。「怒りって、どこから来るんだろう」
晴が困惑した。「え?不正があったからでしょ」
蓮が分析を始めた。「『不正』という認識が先にある。客観的事実じゃない」
「でも、順番抜かしは不正だよ」
「文化によっては、違う」蓮が言った。「列の概念がない社会もある」
「ここでは不正だ」晴が主張する。
「そう。『べき』という期待が、怒りを生む」
乃愛が補足した。「期待と現実のギャップ。それが感情の源」
晴が考えた。「じゃあ、期待しなければ怒らない?」
「理論上はね」蓮が言った。「ストア派はそれを目指した」
「でも、それって人間らしくない」晴が反発する。
乃愛が優しく言った。「怒りを否定する必要はない。問題は、どう扱うか」
「どう扱う?」
「怒りには機能がある」蓮が説明した。「不正への警告信号だ」
「じゃあ、怒るべき?」
「単純じゃない」乃愛が言った。「怒りを感じることと、怒りで行動することは別」
晴が混乱した。「区別できるの?」
「訓練次第」蓮が答えた。「感情を観察する。でも、支配されない」
「仏教のマインドフルネス?」
「近い。感情を否定せず、距離を取る」
晴が深呼吸した。「難しそう」
乃愛が別の角度を示した。「でも、怒りには正当性もある」
「どういうこと?」
「不正義への怒りは、道徳感覚の表れ。それ自体は悪くない」
蓮が頷いた。「アリストテレスは『正しい理由で、正しい程度に怒る』ことを美徳とした」
「正しい程度?」
「過剰でも不足でもない。中庸だ」
晴が考え込んだ。「じゃあ、さっきの私の怒りは?」
「どう思う?」乃愛が聞き返した。
「多分…過剰かも。順番抜かしくらいで、こんなに怒る必要ない」
「自己認識が大事」蓮が言った。「怒りの原因を理解すること」
「原因?期待のギャップでしょ?」
「もっと深い」乃愛が言った。「なぜその期待を持ったか」
晴が振り返った。「公平さを大切にしてるから…?」
「そう。怒りは、あなたの価値観を映す鏡」
蓮が追加した。「だから、怒りを観察すると、自分が分かる」
「怒りから学ぶ?」
「そう。何に怒るかで、何を大切にしてるかが見える」
晴が納得しかけた。「じゃあ、怒りは悪じゃない?」
「道具だ」乃愛が言った。「使い方次第」
「破壊的にも、建設的にもなる」蓮が補足した。
「建設的な怒り?」
「社会運動の多くは、怒りから始まる」乃愛が例を挙げた。「不正義への怒りが、変化を生む」
「でも、コントロールは必要?」
「絶対に」蓮が断言した。「盲目的な怒りは、破壊しかしない」
晴がノートに何かを書いた。「怒りを感じたら、一度立ち止まる。原因を考える」
「良い習慣だ」乃愛が微笑んだ。
蓮が付け加えた。「そして、怒りを燃料にするか、消すか、選択する」
「選択…」晴が呟いた。
「感情は自動的。でも、反応は選べる」
晴が窓の外を見た。さっきまでの怒りが、既に薄れている。
「怒りって、一時的だね」
「すべての感情がそうだ」乃愛が言った。「波のように来て、去る」
「だから、波に呑まれないことが大事」蓮が締めくくった。
晴が笑った。「怒りも、哲学の対象になるんだね」
「すべてが哲学の対象だ」蓮が答えた。
三人は静かに考えた。怒りという、人間らしい感情について。