「卵を茹でると、白くなりますよね」
奏が唐突に言った。
ミリアが静かに頷いた。「タンパク質の変性」
「変性?」
玲が説明を始めた。「タンパク質の立体構造が壊れること。機能を失う」
「でも、アミノ酸の配列は変わらない」
「変わらないのに、構造が崩れる?」
「そう。タンパク質の三次構造は、非共有結合で維持されている」
ミリアが図を描いた。複雑に折りたたまれたタンパク質。
「一次構造はペプチド結合。共有結合で強い」
「二次構造はαヘリックスやβシート。水素結合」
「三次構造は全体の折りたたみ。水素結合、イオン結合、疎水性相互作用、ジスルフィド結合」
玲が詳しく説明した。「非共有結合は、共有結合より弱い」
「温度、pH、溶媒で簡単に壊れる」
奏が質問した。「卵を茹でると、何が起きるんですか?」
「熱が非共有結合を壊す」ミリアが答える。
「タンパク質が広がって、互いに絡まる」
「だから白く固まる」
玲が補足した。「可溶性だったタンパク質が、不溶性の凝集体になる」
「元には戻らない。不可逆的変性」
奏が実験を提案した。「実際に見てみたい」
ミリアが試験管に卵白を薄めた溶液を準備した。
「これに塩酸を加える」
溶液が白く濁った。
「pHの変化で変性」玲が解説する。
「アミノ酸の側鎖がプロトン化されて、電荷が変わる」
「イオン結合が壊れ、静電反発が起きる」
奏が理解した。「pHで構造が変わるんですね」
ミリアが別の試験管にエタノールを加えた。
また白く濁る。
「溶媒の極性が変わると、疎水性相互作用が崩れる」玲が説明する。
「タンパク質の内部は疎水性アミノ酸が集まってる」
「水溶液中では、疎水性アミノ酸が内側に隠れる」
「でもエタノールでは、疎水性相互作用が弱まる」
奏が深く考え込んだ。「じゃあ、体温が上がると?」
「タンパク質が変性し始める」玲が真剣な顔で答えた。
「だから高熱は危険。42度を超えると、多くのタンパク質が変性する」
ミリアが補足した。「でも、熱ショックタンパク質が守る」
「熱ショックタンパク質?」
「ストレス条件で発現する。他のタンパク質の折りたたみを助ける分子シャペロン」
玲が詳しく説明した。「GroELやHsp70。変性しかけたタンパク質を認識して、正しく折りたたむ」
「構造の守護者ですね」
ミリアが別の例を出した。「プリオン病」
「プリオン?」
「正常なタンパク質が、異常な構造に変換される病気」
「狂牛病や、クロイツフェルト・ヤコブ病」
玲が深刻な顔をした。「プリオンタンパク質PrPは、正常型と異常型がある」
「同じアミノ酸配列だけど、立体構造が違う」
「異常型は、正常型を異常型に変換する」
奏が恐怖を感じた。「構造が感染する?」
「そう。これが、タンパク質構造の重要性を示す最も劇的な例」
ミリアが静かに言った。「構造は機能。機能は生命」
「構造が崩れれば、機能が失われ、生命が脅かされる」
玲が最後に言った。「だからこそ、細胞は多大なエネルギーを使って、タンパク質の構造を維持する」
「シャペロン、ユビキチン・プロテアソーム系、オートファジー」
「全て、タンパク質の品質管理」
奏がノートを閉じた。「三次構造が崩れるとき、それは生命の危機」
「でも、生命は構造を守る仕組みも進化させた」
ミリアが最後に書いた。「Stability is not a given. It is maintained」
「安定性は与えられるものではない。維持されるもの」
夜が深まる。体の中で、無数のタンパク質が、今この瞬間も正しい構造を保つために、戦い続けている。