「膜って、固い壁じゃないんだ」
トーマが教科書の図を指差した。
レイが頷く。「むしろ流動的だ。脂質二重層は、二次元の液体のようなもの」
「液体?」カナが驚く。「でも形を保ってる」
「シート状の液体。脂質分子は横方向に自由に動ける」
レイがホワイトボードに描き始めた。リン脂質の構造。親水性の頭部と疎水性の尾部。
「リン脂質は両親媒性だ。水と油の両方の性質を持つ」
「だから二重層を作る?」
「そう。水溶液中では、疎水性の尾部を内側に向けて、二重層を形成する。これが最も安定な配置」
カナが図を見る。「尾部が向き合ってる」
「疎水性相互作用。水から逃げるように集まる」
トーマが質問する。「でも、動くって?」
「脂質分子は二次元平面内で拡散する。横方向の移動は速い」
レイは数字を書いた。「秒速マイクロメートルのオーダー。細胞サイズなら、秒単位で端まで移動できる」
「そんなに速い?」
「回転運動も速い。自分の軸を中心に回転する」
「じゃあ、上下の移動は?」
「フリップフロップという。これは非常に遅い。エネルギーコストが高い」
カナが理解しようとする。「なぜ?」
「親水性の頭部が、疎水性の内部を通過しなければならない。熱力学的に不利」
レイが続ける。「でも、フリッパーゼという酵素が、ATPを使ってフリップフロップを促進する」
「酵素が膜の非対称性を維持する?」
「正確。細胞膜の内側と外側では、脂質組成が異なる」
トーマが興味を示す。「流動性は変えられる?」
「温度と脂質組成で決まる」レイが説明した。「温度が下がると、脂質は固まる」
「相転移?」
「そう。ゲル相と液晶相の転移。生理的温度では液晶相だ」
カナが質問する。「脂質の種類も影響する?」
「大きく。不飽和脂肪酸は二重結合で折れ曲がる。密に詰まらないから流動性が高い」
「飽和脂肪酸は?」
「まっすぐで、密に詰まる。流動性が低い」
レイは別の例を挙げた。「コレステロールも重要だ。流動性を調節する」
「どうやって?」
「低温では流動性を上げ、高温では下げる。緩衝作用だ」
トーマが感心する。「膜って、精密に制御されてるんだ」
「生体膜は、単なる仕切りじゃない。動的なプラットフォームだ」
カナが考える。「膜タンパク質も動く?」
「流動モザイクモデル」レイが説明した。「タンパク質は脂質の海に浮かぶ氷山のようなもの」
「氷山?」
「横方向に拡散できる。でも、一部のタンパク質は細胞骨格に固定されている」
ミリアが部屋に入ってきた。「脂質ラフトの話をしてる?」
「まだだけど」レイが微笑んだ。
「脂質ラフト?」カナが聞く。
「特定の脂質とタンパク質が集まった領域。膜の中の特別な場所」
レイが補足する。「スフィンゴ脂質とコレステロールが豊富で、他の領域より秩序が高い」
「なぜ集まる?」
「特異的な相互作用。シグナル伝達などに関与する」
トーマが質問する。「膜の厚さは?」
「約5ナノメートル。非常に薄いが、強度は十分」
「破れないの?」
「自己修復能力がある。小さな穴は、疎水性相互作用で自然に閉じる」
カナがまとめる。「リン脂質は、絶えず動きながら、膜という構造を保つ」
「動的平衡の良い例だ」レイが頷いた。
「踊るように動いて、でも調和を保つ」カナが詩的に言った。
「分子の舞踏会」トーマが付け加えた。
ミリアが静かに言う。「その踊りが、生命の境界を作る」
「美しい表現だ」レイが認めた。
三人は、目に見えない細胞膜の動的な世界を、想像した。リン脂質が絶え間なく踊る、生命の舞台を。