「また雨だ」
由紀は窓の外を見つめた。雨粒がガラスを叩いている。
「今日もミラからのメッセージ、読めないかもね」陸が呟いた。
葵が首をかしげる。「どういうこと?」
「ほら、ミラって海外からリモートで研究してるでしょ。雨の日になると、なぜかメッセージが文字化けするんだ」
「文字化け?」由紀が興味を示した。
「そう。普段は完璧なのに、雨が降ると途端におかしくなる」
葵が考え込んだ。「それは通信路のノイズが増えているんだ」
「通信路のノイズ?」
「電波や光ファイバー、どんな通信手段でも、物理的な環境の影響を受ける。雨は電磁波を吸収・散乱させる」
由紀がノートに書き留める。「つまり、天候が通信品質に影響する?」
「まさに。シャノンの理論では、通信路にはチャネル容量がある。これは、単位時間あたりにエラーなく送れる最大情報量だ」
陸が質問した。「雨が降ると、そのチャネル容量が減る?」
「正確には、ノイズが増えると容量が減る。シャノンの式では C = B log₂(1 + S/N) だ」
「C がチャネル容量、B が帯域幅、S/N は信号対雑音比」葵がホワイトボードに書いた。
由紀が気づいた。「雨でノイズが増えると、S/N が下がって、C も下がる」
「その通り。そして、送信側がこの容量を超える速度で情報を送ろうとすると、エラーが増える」
陸がスマホを見た。「ミラは普段と同じ速度で送ってるけど、雨の日は容量が足りなくなるってこと?」
「可能性が高い。通信プロトコルが適応的でない場合、そうなる」
「適応的?」
「環境に応じて送信速度やエラー訂正の強度を変える仕組み。現代のシステムの多くは適応的だけど、完璧じゃない」
由紀が考えた。「じゃあ、どうすれば雨の日でも読める?」
葵が三つの方法を挙げた。
「一つ目、送信速度を下げる。容量以下に抑えれば、理論的にはエラー率をゼロに近づけられる」
「でも、遅くなる」陸が指摘した。
「そう。二つ目、エラー訂正符号を強化する。冗長性を増やして、ノイズに耐える」
「これも情報の実効速度が下がる」由紀が理解した。
「三つ目、複数の通信路を使う。一つがダメでも、別の経路で送る」
陸が目を輝かせた。「なるほど。でも、全部トレードオフがあるんだな」
「情報理論の本質がそこにある。容量は物理法則で決まる。どんなに賢くても、シャノン限界は超えられない」
その時、由紀のスマホが鳴った。ミラからのメッセージだ。
「あれ、読める」
葵が窓を見た。雨が小降りになっている。
「ノイズレベルが下がったんだ。チャネル容量が回復した」
陸が笑った。「天気予報が通信品質の予測になるとは」
「実際、衛星通信では天候データを使って伝送速度を調整する」葵が説明した。
由紀がメッセージを読んだ。「『今日の実験結果、送ります。ただし圧縮してます』って書いてある」
「賢いね」葵が頷いた。「ミラも適応してる。情報を圧縮して、必要なビット数を減らした」
「圧縮?」
「エントロピー符号化。冗長性を削って、本質的な情報だけを送る。これでチャネル容量内に収まる」
陸が感心した。「情報理論、実用的だな」
「理論は現実から生まれ、現実に応用される。シャノンも、実際の通信問題を解くために理論を作った」
由紀がふと思った。「人間の会話も同じかもしれない」
「どういう意味?」
「雨の日、なんとなく人の話が聞き取りにくい。環境ノイズが増えるから」
葵が微笑んだ。「鋭い観察だ。音響ノイズも、S/N比を下げる。だから雨の日は、大きな声で話すか、ゆっくり話す」
「信号を強くするか、速度を下げるか」陸が理解した。
「無意識に適応してる。生物の通信能力は、情報理論の原理を体現している」
窓の外では、雨が完全に止んでいた。
由紀のスマホに、また通知が来た。ミラからの詳細なデータファイルだ。
「完璧に受信できた」
「チャネル容量、全回復だね」葵が言った。
陸が立ち上がった。「よし、今のうちに俺も返信しよう。また雨が降る前に」
「天気は通信の敵でもあり、教師でもある」葵が哲学的に言った。
由紀がノートを閉じた。「メッセージが読めない日は、いつも雨。でも、その理由がわかった」
「理論を知れば、対策も見える。それが情報理論の力だ」
三人は静かに窓の外を見た。晴れ間から、光が差し込んでいる。通信路は、再び開かれた。