「見て、この酵素反応が磁場で変わるんだって」
カナは実験ノートを指差した。部室の窓際で、トーマが小さな磁石を持って遊んでいる。
「磁場?化学反応が?」カナが首をかしげる。
レイが静かに答える。「ラジカルペアが関わる反応なら、磁場の影響を受ける。電子スピンの問題だ」
「電子…スピン?」
「電子は小さな磁石のようなもの。スピンという性質を持っている」レイが図を描き始めた。
トーマが磁石を近づけてくる。「こんな小さい磁石でも?」
「理論的には。でも実験で観測できるほどの効果は、もっと特殊な条件が必要だ」
カナが考え込む。「ラジカルペアって?」
「一対の不対電子を持つ分子のペア。通常、電子は対になって安定する。でも、化学反応の途中で一時的に不対電子が生まれる」
レイはホワイトボードに反応スキームを書いた。
「このラジカルペアの電子スピンが、磁場によって配向を変える。すると反応速度や生成物の比率が変わる」
「不思議」カナが目を輝かせた。「目に見えない磁場が、分子の運命を変えるんですね」
トーマが突然思いついた。「じゃあ、渡り鳥の磁気感覚も?」
「良い着眼点。実際、鳥の網膜にあるクリプトクロムというタンパク質が、ラジカルペア機構で磁場を感知すると考えられている」
カナが驚く。「生物が量子効果を使ってる?」
「量子生物学という分野がある。電子スピンの重ね合わせ状態が、生体反応に影響する」
レイは続ける。「二つの電子のスピンは、平行(三重項状態)か反平行(一重項状態)のどちらかになる。磁場があると、この二つの状態の変換速度が変わる」
「スピン状態が…変わる?」
「そう。一重項と三重項は、化学的な反応性が違う。一重項は対になって結合を作りやすい。三重項は別々に動く」
トーマが磁石を動かしながら聞く。「じゃあ、磁場が強いほど効果は大きい?」
「線形ではない。地球磁場のような弱い磁場でも、適切な分子系なら効果が出る。それが生物の磁気感覚の秘密だ」
カナが実験ノートを見返す。「この論文、フラビンラジカルについて書いてある」
「フラビンは電子の受け渡しに関わる補酵素。光を吸収すると励起状態になり、ラジカルペアを形成する」
「それで磁場を感じる?」
「おそらく。フラビンラジカルのスピン状態が磁場で変わり、それが何らかのシグナル伝達系を通じて神経に伝わる」
トーマが実験台に磁石を置いた。「俺たちも実験できる?」
「家庭用の磁石では難しい。精密な制御と検出系が必要だ」
「でも、原理は分かった」カナが言った。「電子のスピンという、見えない性質が揃うとき、化学反応の道筋が変わる」
レイが微笑む。「量子力学と生化学の交差点。電子は粒子であり波でもあり、そして小さな磁石でもある」
「不思議な世界ですね」カナが窓の外を見た。「私たちの体の中でも、電子が静かに回転している」
「回転というより、固有の角運動量を持っている」レイが訂正した。「でも、詩的な表現としては悪くない」
トーマが磁石を片付けながら言った。「見えないものが、見えるものを動かす」
「それが量子生物学の魅力だ」レイが締めくくった。
三人は、電子という最小の存在が、生命という最大の謎に関わっていることを、静かに考えた。