「今日の海斗、いつもより機嫌が悪い」
空が日和に小声で言った。部室で海斗は、壁に寄りかかって黙り込んでいる。
「何かあったのかな」日和が心配そうに見る。
海斗が突然立ち上がった。「別に何もないよ」
口調が荒い。いつもの海斗らしくない。
「本当に?」空が慎重に聞く。
「うるさいな。放っといてくれよ」
海斗は部室を出ていった。ドアが大きな音を立てる。
日和がため息をついた。「最近、海斗くんの気分の波が激しい気がする」
「情緒不安定ってやつですか?」
「そうかもしれません。でも、そう簡単に片付けられない」
空がノートを開いた。「心理学的には、どう説明できるんですか?」
「情緒不安定の背景には、いくつかの要因があります」日和が説明し始めた。「ストレス、睡眠不足、ホルモンバランス、過去の経験...」
「海斗の場合は?」
「分からないけど、最近何か負担がかかっているのかもしれません」
翌日、海斗は部室に来なかった。空と日和は、図書館で彼を見つけた。
「海斗、ちょっといい?」日和が優しく声をかけた。
海斗が顔を上げた。疲れた顔をしている。
「昨日はごめん。当たり散らして」
「大丈夫」空が言った。「でも、何か困ってることがあるなら...」
海斗がしばらく黙っていた。そして、静かに話し始めた。
「家のことでさ。親がずっと喧嘩してる。それで、家にいるのが辛くて」
日和が静かに聞いた。何も言わず、ただ聞いている。
「自分でもおかしいって分かってる。些細なことでイライラして、次の瞬間落ち込んで。コントロールできないんだ」
「それは正常な反応です」日和が言った。「慢性的なストレス下では、感情調整機能が低下します」
「感情調整機能?」海斗が聞く。
空が補足した。「感情を適切にコントロールする能力のことです。でも、ストレスが多いと、その機能が疲弊する」
「つまり、俺が弱いわけじゃない?」
「弱いんじゃありません」日和が断言した。「限界を超えた負荷がかかっているだけです」
海斗が少し表情を和らげた。
「心理学では、感情は波のようなものだと考えます」日和が続けた。「高くなったり低くなったりするのは自然なこと。問題は、その波が自分の処理能力を超えた時です」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」海斗が聞く。
「まず、自分の感情パターンに気づくこと」空が言った。「どんな時にイライラするか、何が引き金になるか」
日和が付け加えた。「そして、ストレス源から一時的に距離を取ること。休息が必要です」
「家から逃げろってこと?」
「逃げるんじゃなく、自分を守るために空間を確保するんです」日和が説明した。「友達の家に泊まるとか、図書館で過ごすとか」
海斗が考えた。「ここ、図書館、結構落ち着くんだよな」
「安全な場所を見つけることは重要です」日和が言った。「心理的な避難所ですね」
空が提案した。「部室もそうしませんか?海斗が落ち着ける場所として」
海斗が初めて笑った。「ありがとう」
「情緒不安定は、弱さじゃない」日和がまとめた。「環境と自分の調整能力のミスマッチ。それに気づいて、対処することが大切です」
海斗がノートに何か書き始めた。「自分の感情、ちゃんと観察してみる」
「良いスタートです」日和が微笑んだ。
空が言った。「波が大きくても、乗り越え方を知っていれば大丈夫」
「波乗りか」海斗が苦笑した。「苦手なんだけどな」
「練習です」日和が言った。「一緒に練習しましょう」
三人は図書館を出た。海斗の表情は、少し軽くなっていた。情緒の波は消えないけれど、それと付き合う方法は学べる。その第一歩を、今日踏み出した。