「ここが情報理論クラブ?」
由紀が恐る恐る扉を開けると、整然とした部室が目に入った。
「ようこそ」葵が振り返った。「新入部員?」
「はい。数学は苦手なんですが…情報理論、面白そうだなって」
「数学が得意である必要はない。好奇心があれば十分だ」
その時、後ろから誰かが突進してきた。
「間に合った!葵先輩、今日は何やるの?」
「陸、また遅刻か」
「いや、これは遅刻じゃなくて、ギリギリ到着!」陸が笑う。
葵がため息をついた。「まあいい。今日は新入部員の由紀に、情報理論の概要を説明する」
「概要?俺もよく分かってないんだけど」陸が正直に言った。
「それは分かってる」葵が苦笑する。「じゃあ、二人とも座って」
由紀と陸が席に着くと、葵はホワイトボードに大きく書いた。
「情報理論とは何か」
「1948年、クロード・シャノンという数学者が創始した学問。情報の本質を数学的に扱う」
「情報の本質?」由紀が首を傾げる。
「情報とは、不確実性を減らすもの。エントロピーという概念で数値化できる」
陸が手を挙げた。「エントロピーって、理科で習ったやつ?」
「熱力学のエントロピーと似ているけど、情報理論では『選択肢の多様性』を測る尺度だ」
葵は三つの箱を描いた。
「第一の箱には白い玉だけ。第二の箱には白と黒が半々。第三の箱には白黒赤青が均等。どれが最もエントロピーが高い?」
「第三!」由紀が即答した。
「正解。選択肢が多く、どれも等しく出やすいとき、エントロピーは最大になる」
「じゃあ、情報理論クラブでは何をするの?」陸が興味津々だ。
葵が三つの指を立てた。「大きく分けて三つの分野がある」
「一つ目、データ圧縮。情報を効率よく保存する技術」
「zipファイルとか?」由紀が聞く。
「そう。写真、音楽、動画。全て情報理論の原理で圧縮されている」
「二つ目、通信。ノイズがある環境で、正確に情報を伝える技術」
「携帯電話とか?」
「その通り。電波は不安定だけど、誤り訂正符号のおかげで通話できる」
陸が驚いた。「すごい!じゃあ三つ目は?」
「暗号。情報を秘密に保つ技術。セキュリティの基礎だ」
「全部、毎日使ってるものじゃん」由紀が目を輝かせた。
「そう。情報理論は見えないけど、現代社会の基盤なんだ」
陸が真剣な顔になった。「なんか、かっこいいな」
葵が微笑んだ。「でも、数式は出てくる。覚悟はいい?」
由紀が少し不安そうにする。「どれくらい難しいですか?」
「高校数学の範囲内。対数、確率、和の記号。それだけで基礎は理解できる」
「ならいけそう!」
「俺は対数が苦手なんだよな…」陸がぼやく。
「大丈夫。部活で練習すればすぐ慣れる」
葵はノートを二冊取り出した。「これ、部室のノート。自由に書いていい」
由紀が受け取る。「何を書けばいいですか?」
「学んだこと、疑問、アイデア。情報理論は考え方だから、自分の言葉でまとめるのが大切」
陸がパラパラとめくった。「先輩のノート、めっちゃ綺麗」
「整理は趣味みたいなものだから」
由紀が決意を込めて言った。「私、頑張ります」
「無理はしなくていい。楽しむことが一番だ」
陸が立ち上がった。「じゃあ、今日から俺たちは情報理論仲間だな!」
葵が頷いた。「この部室で、たくさんのことを学んでほしい。通信、圧縮、予測、ランダム性。全部つながっている」
由紀は窓の外を見た。普通の放課後が、少し違って見える気がした。
情報は、あらゆる場所に存在している。それを理解する旅が、今日始まった。