欲求と現実の間で揺れる

内的葛藤と動機の対立、欲求階層理論を通して自己理解を深める。

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「やりたいことと、やるべきこと、どっちを選ぶ?」

海斗が突然聞いた。部室で、日和とミラが顔を上げた。

「また哲学的なこと言い出した」日和が苦笑した。

「いや、マジで悩んでるんだ。バンドの練習と、受験勉強」

ミラがノートに書いた。「内的葛藤」

「そう、それ!」海斗が指さした。「心の中で戦ってる感じ」

日和が説明し始めた。「心理学では、複数の動機が対立することを内的葛藤と呼びます」

「動機?」

「行動を起こす理由。欲求、目標、価値観など」

海斗が考えた。「俺の場合、音楽への欲求と、将来への不安が戦ってる」

「典型的な接近・接近葛藤ですね」日和が分類した。

「接近・接近?」

ミラが図を描いた。二つの円があり、真ん中に人の絵。

「どちらも魅力的な選択肢がある場合」日和が説明した。「どちらかを選ぶと、もう一方を失う」

海斗が頷いた。「両方やりたい。でも時間が足りない」

「リソースの制約」日和が言った。「時間、エネルギー、お金。全てを満たすことは不可能」

「じゃあ、どうすればいいんだ?」

ミラが新しいページに書いた。「マズローの階層」

日和が理解した。「欲求階層理論ですね」

「何それ?」海斗が聞く。

「人間の欲求には優先順位がある、という理論。生理的欲求、安全欲求、所属欲求、承認欲求、そして自己実現欲求」

海斗が考えた。「バンドは自己実現で、受験は安全欲求?」

「ある意味そう。将来の安定を求める気持ちと、今を生きたいという気持ち」

「どっちが大事なんだ?」

日和が穏やかに言った。「どちらも大事。でも、段階があるという考え方」

ミラが図を完成させた。ピラミッド型の階層が描かれている。

「基本的な安全が脅かされている時、自己実現は難しい」日和が説明した。「でも、安全だけでは満たされない」

海斗が混乱した顔をした。「つまり?」

「バランスの問題です」日和が答えた。「受験を完全に無視するのも、バンドを諦めるのも、どちらも極端」

「中間を探す?」

「そう。例えば、受験勉強を週の7割、バンドを3割にする」

海斗が考え込んだ。「でも、中途半端になりそう」

ミラが書いた。「全か無かの思考」

「良い指摘」日和が認めた。「完璧主義の罠ですね。100パーセントでないと意味がないと思ってしまう」

「俺、そうかも」海斗が認めた。

「でも現実は、多くの場合、60パーセントや70パーセントで十分機能する」

海斗が窓の外を見た。「欲求と現実の間で揺れる。それって普通なのか?」

「とても普通です」日和が断言した。「葛藤のない人生なんてありません」

ミラが頷いた。そして書いた。「私も揺れてる」

海斗と日和が驚いた。ミラが自分のことを話すのは珍しい。

「何と何の間で?」日和が優しく聞いた。

ミラが少し躊躇してから書いた。「人と関わりたい。でも、傷つきたくない」

日和が理解を示した。「回避・回避葛藤ですね。どちらも避けたいことの選択」

「孤独も嫌だけど、人間関係も怖い」

海斗が言った。「それ、めっちゃ分かる」

ミラが少し驚いた顔をした。

「俺も人前で演奏するの、怖いもん。でも、音楽やめたくない」

日和が微笑んだ。「みんな何かと戦ってるんですね」

「葛藤をどう解決すればいいんだ?」海斗が聞いた。

日和が考えた。「完全に解決する必要はないかもしれません。むしろ、葛藤と共存する」

「共存?」

「揺れ続けながら、その都度選択する。今日は勉強、明日はバンド。柔軟に調整する」

ミラが書いた。「固定しない」

「そう。一度決めたら永遠、ではなく、状況に応じて変える」

海斗が少し楽になった。「じゃあ、今決めなくてもいい?」

「大きな決断は必要な時が来ます。でも、日々の選択は、試行錯誤でいい」

ミラが書いた。「欲求を否定しない」

日和が頷いた。「どちらの欲求も、自分の一部。否定するのではなく、認めて、調整する」

海斗が立ち上がった。「なんか、気が楽になった」

「葛藤は悪いことじゃない」日和が言った。「複数の価値観を持っている証拠」

ミラが微笑んだ。揺れることは弱さじゃない。人間らしさだ。

三人は部室を出た。欲求と現実の間で揺れる日々は続く。でも、それでいい。揺れながら進む。それが生きるということだから。