「これ、抗がん剤として承認されてる薬だけど…」
英司が画面を指した。
「何か問題が?」瀬名が尋ねる。
「逆。アルツハイマー病にも効くかもしれない」
晃が興味を示した。「ドラッグリポジショニング?」
「そう。既存薬の新しい適応症を探す戦略だ」
瀬名が質問した。「でも、どうして抗がん剤が神経疾患に?」
英司が説明した。「偶然じゃない。標的タンパク質のネットワークを解析したら、共通のパスウェイが見つかった」
晃がノートを開いた。「オフターゲット効果?」
「それもある。でも今回は、意図的な多標的戦略だ」
英司は図を描いた。薬物と複数の標的を結ぶネットワーク。
「この薬、主標的はキナーゼAだけど、キナーゼBにも弱く結合する」
「副作用じゃなくて?」瀬名が確認する。
「副作用になることもある。でも、キナーゼBがアルツハイマー病の経路にあれば、治療効果になる」
晃が理解した。「一石二鳥の可能性」
「正確には、計算された多面性だ」
瀬名がノートに書いた。「リポジショニングの利点は…」
「まず、安全性データが既にある。臨床試験のフェーズ1をスキップできる」
晃が追加した。「開発期間も短縮される。10年が5年になることも」
「コストも下がる?」
「大幅に。新薬開発は数千億円かかるけど、リポジショニングは数百億円」
英司が別の例を出した。「これ、関節リウマチの薬だったけど、今は炎症性腸疾患にも使われてる」
「機序は?」
「炎症性サイトカインの阻害。標的は同じで、疾患が違う」
瀬名が質問した。「でも、どうやって候補を見つけるんですか?」
英司が方法論を説明した。「いくつかアプローチがある。まず、表現型スクリーニング」
「表現型?」
「細胞や動物モデルで、直接効果を観察する。標的を知らなくても、効けば良い」
晃が補足した。「仮説フリーなアプローチだ」
「次に、構造ベースの方法。既存薬を、新しい標的にドッキングする」
「全部試すんですか?」瀬名が驚く。
「仮想スクリーニングで。数千の薬と数百の標的、全組み合わせを計算できる」
晃が言った。「計算コストは?」
「最近は、機械学習で効率化されてる。事前に可能性の高い組み合わせを絞る」
英司は別のアプローチを紹介した。「そして、ネットワーク薬理学」
「ネットワーク?」
「疾患と薬物を、分子ネットワークで表現する。共通のノードやパスウェイを探す」
晃が画面を見た。「これ、グラフ理論?」
「そう。疾患遺伝子と薬物標的の最短経路を計算したり、クラスタリングしたり」
瀬名が興奮した。「数学が、創薬につながる!」
「すべてはつながってる」英司が言った。「情報学、構造生物学、臨床医学」
晃が現実的な質問をした。「でも、成功率は?」
「正直、まだ低い。10から100の候補から、1つ承認されれば良い方」
「それでも、やる価値がある?」
「ある。特に、希少疾患や緊急時。COVID-19のとき、既存薬の再利用が急がれた」
瀬名が思い出した。「レムデシビルも、元はエボラ用でしたね」
「正確。リポジショニングの成功例だ」
英司が別の候補を見せた。「これ、意外だと思わない?」
「抗うつ薬が…糖尿病に?」
「セロトニン受容体が、膵臓のβ細胞にもある。そこを調節すると、インスリン分泌が変わる」
晃が感心した。「生物学の複雑さだな」
「そう。一つの受容体が、複数の組織で違う役割を持つ」
瀬名が言った。「だから、意外な組み合わせが生まれる」
「リポジショニングの魅力は、そこにある。既知の薬に、未知の可能性」
英司はデータベースを開いた。「これ、DrugBankというリソース。すべての承認薬の情報」
「構造、標的、副作用、すべて記録されてる」
晃が提案した。「副作用プロファイルから、新しい適応症を推測できる?」
「できる。副作用は、意図しない薬理作用。でも、それが別の疾患では主作用になり得る」
瀬名が理解した。「薬の"影"の部分を、光に変える」
「美しい表現だね」英司が微笑んだ。「影に潜む意外な候補。それが、リポジショニングの本質だ」
晃が冷静に言った。「でも、知的財産の問題もある」
「確かに。既存薬は特許が切れてることが多い。企業の動機が弱い」
「それでも、患者には価値がある」
「そう。だから、アカデミアや公的機関の役割が大きい」
瀬名がノートを閉じた。「既存の資源を、新しい視点で見直す。リポジショニングって、創造的ですね」
「過去と未来をつなぐ架け橋だ」英司が言った。
三人は、既存薬のデータベースに、まだ見ぬ可能性を探し続けた。