「世界って、確率で説明できるんですか?」
由紀が窓の外を見ながら、ぽつりと尋ねた。
「面白い質問だね」葵がノートを開いた。「確率論は、世界を理解するための言語みたいなものだ」
「言語?」
「そう。世界は複雑で、全てを完璧に知ることはできない。でも、確率を使えば、不確実性を含めたまま世界のカタチを描ける」
陸が横から覗き込む。「俺、昨日の天気予報が外れて濡れたんだけど、それも確率の問題?」
「まさに」葵が頷いた。「天気予報は、『明日雨が降る確率70パーセント』みたいに表現する。これは、世界のモデルだ」
「モデル?」由紀が聞く。
「現実を単純化した表現。全ての大気の動きを完璧に追跡することは不可能だから、確率で近似する」
葵はホワイトボードに図を描いた。
「例えば、サイコロを振る。物理的には、投げる力、角度、回転が全て決まっていれば、結果も決まる。でも、それを全部測るのは現実的じゃない」
「だから、確率1/6ずつと考える」由紀が理解する。
「その通り。確率は、知識の限界を認めた上での最適な記述方法なんだ」
陸が考え込んだ。「じゃあ、もっと情報があれば、確率は変わる?」
「鋭い」葵が目を輝かせた。「それがベイズ更新という考え方。新しい情報を得るたびに、確率を修正していく」
「ベイズ?」
「トーマス・ベイズという数学者が作った理論。簡単に言うと、『証拠を見て、信念を更新する』プロセスだ」
由紀がノートに書き留める。「例えば?」
「陸が遅刻する確率を90パーセントだと思ってたとする」
「またそれかよ!」陸が抗議する。
「でも、陸が『今日は早起きした』と言ったら、遅刻確率は下がるかもしれない。これが事前確率から事後確率への更新だ」
「なるほど…」由紀が納得する。
陸が反論した。「でも俺、早起きしても結局遅刻することあるし」
「だから確率は100パーセントにならない。不確実性は残る。それが現実的なモデルなんだ」
葵が別の例を出した。「病気の診断も同じ。検査結果が陽性でも、100パーセント病気とは限らない。事前の発症率、検査の正確性、全てを確率的に組み合わせて判断する」
「数学って、実用的なんだな」陸がしみじみ言った。
「情報理論と確率論は、現代のあらゆる技術の基盤だ。機械学習も、通信も、全て確率で世界をモデル化している」
由紀がふと思いついた。「じゃあ、完全に正しいモデルって作れないんですか?」
葵が静かに微笑んだ。「全てのモデルは間違っている。でも、いくつかは有用だ」
「誰かの言葉?」
「統計学者ジョージ・ボックスの名言。大事なのは、完璧を目指すことじゃなく、現実に役立つモデルを作ること」
陸が窓の外を見た。「明日の天気も、確率でしか分からないんだな」
「でも、その確率が70パーセントなら、傘を持っていく判断ができる」葵が言った。「確率は、不確実な世界で最善の決定をするための道具なんだ」
「深いな」由紀がノートを閉じた。
「情報理論を学ぶほど、世界の見え方が変わる。それが面白いところだ」
三人は夕暮れの部室で、不確実な世界について静かに考えた。