「この音声、ノイズがひどくて聞き取れない」
陸がヘッドフォンを外した。
「信号対雑音比が低いんだな」葵が言った。
「信号対雑音比?」由紀が聞いた。
「SNR。信号の強度と、ノイズの強度の比率」
ミラが補足した。「高いほど、クリアに聞こえる」
「じゃあ、これは低いのか」陸が溜息をついた。
葵がノートパソコンを開いた。「フィルタをかけてみよう」
「フィルタ?」
「特定の周波数成分だけを通す。ノイズと信号の周波数が違えば、分離できる」
由紀が興味を持った。「どうやって?」
「音声は通常、低い周波数。ホワイトノイズは全周波数に広がる」
「だから、高周波成分を削除すれば、音声だけ残る?」
「理論的にはね。実際は少し複雑だけど」
葵が処理を実行した。ノイズが減り、音声が明瞭になった。
「すごい!」陸が驚いた。
「でも」ミラが指摘した。「完全じゃない。一部の信号も失われた」
「トレードオフですか?」由紀が聞いた。
「そう。ノイズを減らすほど、信号も歪む可能性がある」
葵が説明を続ける。「ノイズ除去は、常に推測を伴う」
「推測?」
「どれが信号で、どれがノイズか、完全には分からない」
陸が考えた。「じゃあ、間違って信号を削除することもある?」
「ある。だから、保守的なフィルタを使うこともある」
由紀が真剣に聞いた。「じゃあ、ノイズの中の真実って、どうやって見つけるんですか?」
葵が整理した。「まず、信号とノイズの性質を理解する」
「性質?」
「信号には構造がある。パターン、周期性、相関」
「ノイズはランダム」ミラが付け加えた。
「でも、完全にランダムとは限らない」葵が補足した。
「ノイズにも種類がある。ホワイトノイズ、ピンクノイズ、インパルスノイズ」
陸が興味を示した。「それぞれ違う対策が必要?」
「そう。ノイズの特性に応じて、フィルタを選ぶ」
由紀が考え込んだ。「人間関係のノイズも同じですか?」
「面白い視点だ」葵が微笑んだ。
「誤解や偏見がノイズで、本当の気持ちが信号?」
「そう捉えられる。では、どうフィルタする?」
陸が答えた。「直接聞く。確認する」
「それが最善のフィルタだね」
ミラが静かに言った。「でも、聞くこと自体がノイズを生むこともある」
「どういうことですか?」
「質問の仕方で、答えが歪む。観測が対象を変える」
葵が頷いた。「量子力学の観測問題に似てる」
「測定すること自体が、系に影響を与える」
由紀が理解した。「だから、慎重に聞かないといけない」
「そう。ノイズを減らそうとして、新たなノイズを生む」
陸が笑った。「難しいな。完璧な通信は無理か」
「無理だ」葵が認めた。「でも、より良い通信は可能だ」
「どうやって?」
「冗長性を持たせる。複数の方法で伝える。理解を確認する」
ミラが補足した。「誤り訂正符号のように」
「全てが情報理論でつながってる」由紀が感心した。
「考えてみれば」陸が言った。「俺たち、会話の中で常にノイズをフィルタしてる。背景音を無視して、話者に集中する」
「それが選択的注意だ」葵が説明した。「脳に組み込まれたノイズフィルタ」
由紀が頷いた。「でも、混雑した場所だと聞き逃すこともあります」
「君のフィルタが完璧じゃないから。どのフィルタも完璧じゃない」
葵がまとめた。「ノイズは避けられない。でも、その中から真実を抽出できる」
「統計的手法、信号処理、情報理論。全て同じ目的を共有している」
「不確実性の中で、最善の推測をする」
陸が葵の画面の波形を見た。「不思議だよな。ノイズにも情報が含まれてる」
「どういうこと?」由紀が聞いた。
「ノイズの種類で、環境が分かる。図書館にいるか、カフェにいるか、ノイズのパターンだけで分かるだろ」
葵が微笑んだ。「鋭い観察だ。ノイズの特性が文脈を明らかにする」
「だから、ノイズは常に悪じゃない」ミラが静かに付け加えた。
「そうだね。まだ解釈する方法を学んでいない信号かもしれない」
四人は静かに頷いた。ノイズの中にこそ、真実は隠れている。それを見つける技術が、情報理論だ。