「え?何て言った?」
由紀は陸の言葉を聞き取れなかった。部室の外では工事の音が響いている。
「だから!情報理論の…」陸が声を張り上げる。
「情報理論の何?」
「宿題!」
ようやく伝わった。葵が苦笑しながら窓を閉める。
「これが、ノイズのある通信路だ」
「ノイズ?」由紀が聞く。
「シグナル、つまり信号を邪魔するもの。工事の音、風の音、雑音全般だ」
陸が疲れた顔をした。「ノイズがあると、会話って大変だよね」
「そう。情報理論では、信号対雑音比という概念がある。SNR比と呼ばれる」
葵はホワイトボードに書いた。
「SNR = Signal / Noise」
「信号が強くて、ノイズが弱いほど、通信は楽になる」
由紀が理解した。「だから静かな場所なら、小さな声でも伝わるんですね」
「正解。逆に、うるさい場所では大声が必要になる」
陸が手を挙げた。「でも、大声だけじゃダメだよね。はっきり喋らないと」
「鋭い観察だ」葵が頷いた。「音量だけでなく、明瞭さも重要。これが符号化の問題になる」
由紀がノートに書く。「符号化?」
「メッセージを、ノイズに強い形に変換すること。例えば、アルファベットを無線で伝えるとき、『A』を『Alpha』、『B』を『Bravo』と言う」
「なんで?」
「『B』と『D』は似た音で、ノイズで混同しやすい。でも『Bravo』と『Delta』なら区別しやすい」
陸が目を輝かせた。「冗長性を追加して、誤りを防ぐんだ!」
「まさに。情報量は増えるが、信頼性も増す」
葵は図を描いた。
「通信路の容量は限られている。ノイズが増えると、容量は下がる。でも賢い符号化で、容量を有効に使える」
由紀が思い出した。「前に習ったシャノン限界ですね」
「そう。ノイズがあっても、限界まで近づけば、ほぼ誤りなく通信できる」
陸がふと気づいた。「俺たちの会話も、符号化されてるのかな?」
「自然言語は、強力な符号化システムだ」葵が説明する。「文法、文脈、言い換え。全てがノイズ対策になってる」
由紀が例を挙げた。「『え?』って聞き返すのも、エラー訂正の一種?」
「正確。フィードバックループだ。受信側が確認して、送信側が再送する」
「人間の会話、すごいな」陸が感心した。
葵が続ける。「でも、完璧じゃない。誤解は起こる。ノイズが強すぎると、どんな符号化も無力だ」
「じゃあ、どうすれば?」
「ノイズを減らすか、信号を強くするか、より良い符号化を使うか。三つの選択肢だ」
由紀が窓の外を見た。工事の音は続いている。
「でも、ノイズを完全に消すのは無理ですよね」
「無理だ。だから、ノイズとの共存を学ぶ。それが通信理論の本質だ」
陸がノートに書いた。「ノイズまみれでも、伝えたいことがある」
「詩的だね、陸」由紀が笑った。
葵が微笑む。「情報理論は、不完全な世界で完璧を目指す技術だ」
工事の音がまた大きくなった。三人は顔を見合わせて笑う。
ノイズがあっても、大切なメッセージは届く。
それを信じて、彼らは今日も会話を続ける。