ミラがノートに書いた。「5年前の言葉を、まだ覚えている」
空が静かに聞いた。「どんな言葉ですか?」
ミラが躊躇した。書き始めて、消した。
日和が優しく言った。「無理に話さなくてもいいです」
ミラが首を振った。そして、ゆっくりと書いた。「お前には才能がない」
空が息を呑んだ。
「誰に言われたんですか?」
ミラが書いた。「美術の先生」
日和が深く頷いた。「権威のある人からの言葉は、特に重く残りますね」
ミラの目が潤んでいた。
空が不思議そうに聞いた。「でも、なぜ言葉はこんなに長く記憶に残るんでしょう?」
日和が説明し始めた。「感情と記憶は、深く結びついています。強い感情を伴う出来事は、より鮮明に記憶される」
「感情的記憶?」
「そう。扁桃体という脳の部位が関わっています」日和が続けた。「ストレスや恐怖を感じると、その記憶が強化される」
空が理解した。「だから、ポジティブな言葉よりネガティブな言葉の方が残りやすい?」
「残念ながら、そうです」日和が認めた。「進化的には、危険を覚えておく方が生存に有利だったから」
ミラが新しいページに書いた。「その言葉のせいで、絵を描けなくなった」
空が驚いた。「ミラさん、絵を描いてたんですか?」
ミラが頷いた。涙が一筋、頬を伝った。
日和がそっとハンカチを差し出した。
「言葉は、時に深い傷を残します」日和が静かに言った。「特に、自己認識が形成される時期に受けた言葉は」
空が考えた。「でも、それは事実じゃないかもしれないですよね?才能がないって」
ミラが空を見た。
「事実かどうかは、実は二次的です」日和が説明した。「重要なのは、ミラさんがそれを信じてしまったこと」
「心理学では、これを『制限的信念』と呼びます」
空が聞いた。「どうすれば、その信念を変えられるんですか?」
日和が慎重に答えた。「簡単ではありません。でも、可能です」
ミラがじっと日和を見ている。
「まず、その信念に気づくこと」日和が言った。「そして、それが本当に事実か、疑ってみる」
空が励ました。「ミラさん、その先生の言葉は、一つの意見に過ぎないんじゃないですか?」
ミラが考え込んだ。
日和が付け加えた。「さらに、その言葉が言われた文脈も重要です。先生の機嫌、状況、動機。様々な要因があったはず」
ミラが書いた。「でも、重い」
「重いのは当然です」日和が認めた。「5年間、それを抱えてきたんですから」
空が提案した。「新しい経験で、上書きするのはどうでしょう?」
日和が頷いた。「良い提案です。ポジティブな経験を積み重ねることで、記憶の感情的な重みを変えられます」
ミラが書いた。「また、描けるようになる?」
「絶対に」空が力強く言った。
日和が微笑んだ。「才能は、誰かが決めるものじゃありません。自分が何をしたいか、それが全てです」
ミラが震える手で書いた。「怖い。また傷つくのが」
「その恐怖も理解できます」日和が優しく言った。「でも、恐怖のために生きることをやめるのは、もったいない」
空がアイデアを出した。「小さく始めましょう。一人で描く。誰にも見せない。それでいい」
ミラが考えた。そして、ゆっくりと頷いた。
日和が言った。「忘れられない言葉の重さは、認めることが大切です。無理に忘れようとしなくていい」
「でも、それに人生を支配させる必要もない」空が続けた。
ミラが新しいページを開いた。そして、小さな花を描き始めた。
空と日和は、静かに見守った。
線は震えていた。でも、確かに花の形になっていく。
ミラが描き終えて、二人に見せた。
「美しい」日和が言った。
「才能がないなんて、嘘だ」空が断言した。
ミラが微笑んだ。涙と一緒に、少しだけ、心の重りが軽くなった気がした。
「言葉の重さは消えないかもしれない」日和が言った。「でも、新しい言葉、新しい経験で、バランスを取り戻せます」
ミラが書いた。「ありがとう」
その言葉は、新しい記憶として、心に刻まれた。ポジティブな、温かい記憶として。