「覚えていたくないのに、消えない」
ミラが珍しく長い文章を書いた。心理学研究室で、空と日和が静かに待つ。
日和が優しく聞いた。「何の記憶ですか?」
ミラが躊躇した。そして、ゆっくり書いた。「否定された記憶」
空が首をかしげた。「否定された?」
「誰かに否定されたこと、かな」日和が推測した。
ミラが頷いた。そして続けた。「『お前は間違っている』『お前には価値がない』」
空が息を呑んだ。「誰にそんなこと言われたんですか?」
ミラは答えなかった。ただ、窓の外を見つめている。
日和が静かに説明し始めた。「否定的な記憶は、肯定的な記憶より強く残ります」
「なぜですか?」空が聞いた。
「進化心理学的には、危険を記憶することが生存に重要だったから。でも、それが現代では心の重荷になる」
ミラが書いた。「Negativity bias」
「否定性バイアス」空が訳した。
日和が続けた。「人間の脳は、悪い出来事を良い出来事より強く記憶する傾向があります」
空が考えた。「だから、一度の否定が、何度もの肯定を打ち消すんですね」
「その通り」日和が頷いた。「そして、否定された記憶は、自己イメージを歪める」
ミラが新しいページを開いた。「Am I worthless?」
空が驚いた。「ミラさん、そんなことないですよ」
でもミラは首を振った。「記憶が言う。『お前は無価値だ』と」
日和が静かに言った。「それは記憶の声です。真実の声ではありません」
「違いは?」ミラが書いた。
「記憶は、過去の特定の状況での出来事。でも、それがあなたの本質を定義するわけではない」
空が付け加えた。「過去の誰かの意見が、ミラさんの価値を決めるわけじゃないです」
ミラが考え込んだ。
日和が続けた。「トラウマ研究では、否定的記憶の再統合という概念があります」
「再統合?」空が聞いた。
「記憶を書き換えるのではなく、新しい意味を与えること。その経験を、違う視点から見直す」
ミラがゆっくり書いた。「どうやって?」
「まず、記憶を客観視する。『あの人はそう言った』という事実と、『私は無価値だ』という解釈を分ける」
空が理解した。「事実と解釈は違うんですね」
「そう。否定されたという事実は変わらない。でも、それをどう解釈するかは選べる」
ミラが質問した。「でも、感情は?」
「感情は正当です」日和が認めた。「傷ついた気持ちを否定する必要はありません」
「でも、その傷に支配される必要もない」空が続けた。
日和が微笑んだ。「その通り。感じることと、それに囚われることは違う」
ミラがノートに書いた。「記憶は重い。でも、運ぶ方法を変えられる?」
「美しい比喩ですね」日和が認めた。「重さは変わらないかもしれない。でも、背負い方は変えられる」
空が提案した。「ミラさん、その記憶に、新しい意味を与えてみませんか?」
「例えば?」
「その否定があったから、ミラさんは人の痛みに敏感になった。共感する力を得た」
ミラがはっとした。
日和が続けた。「傷は、時に贈り物にもなります。完全に癒えなくても、成長の源になる」
ミラが涙を拭いた。そして書いた。「傷跡は、生きた証」
「そうです」日和が優しく言った。「否定された記憶は消せない。でも、それだけがあなたを定義するわけではない」
空が付け加えた。「今、ここにいるミラさんを見てください。傷を抱えながらも、前に進んでいる」
ミラが小さく微笑んだ。
日和が最後に言った。「記憶の重さは、一人で運ぶ必要はありません。分かち合うことができる」
ミラがノートを閉じた。否定された記憶は、まだそこにある。でも、少しだけ軽くなった気がする。
「ありがとう」ミラが声に出して言った。珍しいことだった。
空と日和が微笑んだ。記憶は重い。でも、一緒に運べば、少しは楽になる。