「カシャッ」
トーマが卵を落とした。白身が固まり始めている。
「あ、やっちゃった」
「いや、いい実験サンプルだ」レイが近づいた。
「実験?」カナが不思議そうに見る。
ミリアが静かに言った。「タンパク質の変性を観察できる」
「変性…」
レイが説明を始めた。「卵白の主成分はアルブミン。タンパク質だ」
「生の時は透明で、加熱すると白く固まる」トーマが補足した。
「なぜ固まるんですか?」カナが尋ねた。
「タンパク質が『壊れる』からだ」レイがホワイトボードに図を描いた。
「壊れる?でも、まだタンパク質ですよね?」
「アミノ酸配列は変わらない。でも立体構造が失われる」
ミリアが続けた。「タンパク質は、特定の三次元構造を持つ。その構造が機能を決める」
「鍵と鍵穴の関係」レイが比喩を使った。「形が崩れると、機能しない」
カナがノートを開いた。「どうして加熱すると構造が崩れるんですか?」
「水素結合が切れるからだ」トーマが答えた。
「タンパク質の構造は、水素結合、疎水性相互作用、ジスルフィド結合で保たれている」レイが列挙した。
「加熱すると、分子運動が激しくなって、これらの弱い結合が切れる」
ミリアが補足した。「そして疎水性部分が露出する。それが凝集を引き起こす」
「凝集?」
「複数のタンパク質分子が、無秩序に絡み合う。それが白い沈殿になる」
カナが卵白を見た。「これが凝集なんですね」
「そう。不可逆的な変化だ」レイが頷いた。
トーマがふと気づいた。「でも、体温でタンパク質は壊れないよな?」
「良い質問」ミリアが微笑んだ。「生体内のタンパク質は、安定化機構がある」
「どんな機構?」
レイが説明した。「シャペロンタンパク質。他のタンパク質が正しく折りたたまれるのを助ける」
「タンパク質を助けるタンパク質?」カナが驚く。
「そう。熱ショックタンパク質HSPとか、シャペロニンとか」
ミリアが詳しく述べた。「新しく合成されたタンパク質は、まだ正しい構造を持たない」
「リボソームから出てきた直後は、アミノ酸の鎖に過ぎない」
「その鎖が、自発的に折りたたまれる。でも時々、間違った形になる」
レイが続けた。「シャペロンは、その間違いを防ぐ。または、間違った構造を解きほぐす」
カナが感心した。「品質管理みたいですね」
「まさに。細胞内の品質管理システムだ」トーマが言った。
「でも」カナが考えた。「もしシャペロンが足りなかったら?」
ミリアが真剣な顔になった。「それが病気の原因になる」
「病気?」
「アルツハイマー病、パーキンソン病。タンパク質の凝集が関係している」
レイが補足した。「βアミロイド、αシヌクレイン。これらが異常に凝集して、神経細胞を傷つける」
「タンパク質が壊れると、病気になる…」カナが呟いた。
「逆に」ミリアが続けた。「正しい構造を保つことが、健康の鍵」
トーマが別の例を出した。「プリオン病も、タンパク質の構造異常だろ?」
「その通り。正常なプリオンタンパク質が、異常な形に変わる」
「そして、その異常型が正常型を異常型に変えていく」レイが説明した。
「連鎖反応」カナが理解した。
「恐ろしい仕組みだ」トーマが言った。
ミリアが静かに言った。「タンパク質の構造は、情報を持っている。その情報が失われると、生命機能も失われる」
カナがノートに書いた。「配列だけでなく、構造も重要」
「アンフィンセンのドグマ」レイが言った。「タンパク質の構造は、アミノ酸配列で決まる」
「でも現実には、シャペロンの助けが必要」
「そう。生命は、単純な化学原理だけでは説明できない」
カナが卵白を見つめた。「この白い固まりの中に、生命の複雑さがある」
「そして脆さも」ミリアが付け加えた。
トーマが笑った。「次からは卵を落とさないようにするよ」
「いや、これは良い教材だった」レイが微笑んだ。
実験室に静寂が戻った。無数のタンパク質が、今もシャペロンに守られながら、正しい構造を保ち続けている。