「確率って、予測のためのものだと思ってました」
由紀は屋上で、葵と話していた。
「それも正しい。でも、情報理論では違う見方がある」
その時、珍しく教授Sが姿を現した。普段は滅多に現れない人物だ。
「議論中かな?」教授が穏やかに聞く。
「確率と情報の関係について」葵が答えた。
「良いテーマだ」教授は手すりに寄りかかった。「確率分布は、世界の形を表す」
「世界の形?」由紀が不思議そうに聞く。
「例えば、サイコロ。均等な分布は、完全な対称性を表す。偏った分布は、何らかの原因がある」
葵が補足する。「分布の形に、情報が宿る」
教授が頷いた。「エントロピーは、その形の複雑さを測る尺度だ」
「複雑さ…」由紀が呟く。
「均一な分布は最も複雑。予測不可能だから。偏った分布は単純。パターンがあるから」
「でも、複雑なのに単純?」
教授が微笑んだ。「逆説的だね。情報理論の面白さはそこにある」
葵がノートに図を描いた。「二つのサイコロ。一つは均等、もう一つは6の目だけが高確率」
「どちらが複雑?」
「均等な方」由紀が答えた。
「そう。でも、どちらが理解しやすい?」
「偏った方。理由が想像できます。細工されてるとか」
「まさに」教授が言った。「パターンは理解可能性を生む。エントロピーが低いほど、圧縮可能で、説明しやすい」
葵が続ける。「確率分布は、モデルでもある。世界をどう見るか、の表現だ」
「モデル?」
「例えば、明日の天気。晴れ70パーセント、雨30パーセント。これは予測であり、モデルだ」
教授が別の例を出した。「言語もそう。英語では『e』が最も頻繁に出る。これは英語という言語の形だ」
「形…」由紀が考え込む。
「確率分布が違えば、言語が違う。日本語は『の』や『は』が多い」
葵が図を追加した。「情報理論では、全てを確率分布で捉える。メッセージ、信号、データ」
「そして、二つの分布の違いを測るのが、KLダイバージェンス」教授が言った。
「前に習いました」由紀が思い出す。
「分布を比べることで、理解が深まる。『実際』と『予測』の差。『A言語』と『B言語』の差」
葵が真剣な表情になった。「確率は、不確実性を扱う唯一の方法かもしれない」
「唯一?」由紀が聞く。
「世界は複雑で、完全には予測できない。でも、確率を使えば、不確実性を定量化できる」
教授が空を見上げた。「大数の法則。試行を重ねれば、確率は現実になる」
「コインを1000回投げれば、ほぼ500回表が出る」
「そう。確率は、長期的な安定性を保証する」
葵が由紀に言った。「情報理論は、確率を通して世界を見る学問だ」
「データは確率分布から生まれる。通信は確率過程だ。学習は分布の推定だ」
教授が静かに付け加えた。「そして、エントロピーは全ての中心にある」
由紀が窓の外を見た。街が広がっている。
「あの街も、確率分布で表せるんですか?」
「表せる」葵が答えた。「人の流れ、交通パターン、店の配置。全て確率的に分析できる」
「世界は、確率の集まり」
教授が微笑んだ。「でも、個々の出来事は決定的に起きる。確率はその全体像を捉える道具だ」
「決定論と確率論…」由紀が呟く。
「両立する。ミクロでは決定的、マクロでは確率的」
葵がまとめた。「確率は、複雑さを扱うための言語。情報は、確率で測られる」
教授が立ち上がった。「良い議論だった。続けて学びなさい」
「ありがとうございました」由紀が頭を下げる。
教授が去った後、葵が言った。「教授は滅多に現れないけど、現れると核心を突く」
「確率で世界を見る。新しい視点です」
「情報理論を学ぶと、世界の見え方が変わる」
由紀は空を見上げた。雲が流れていく。その動きも、確率過程だ。風速、湿度、気圧。全てが確率的に相互作用する。
「世界は、情報で満ちている」
葵が頷いた。「そして、確率がその鍵を握っている」
屋上の風が、二人の髪を揺らした。情報理論の旅は、まだ始まったばかりだ。