「これ、どういう意味?」
由紀がミラのメモを見せた。「Meaning beyond bits」と書かれていた。
葵が頷いた。「良い質問だ。シャノンの情報理論は、シンボルの伝送を扱う。でも、意味は扱わない」
「意味は扱わない?」由紀が驚いた。
「シャノン自身が認めている。『意味の問題は、工学的には無関係』と」
陸が割り込んだ。「でも、意味が伝わらなきゃ、通信の意味ないじゃん」
「まさに。だから、最近では意味的通信という概念が注目されてる」
葵はホワイトボードに図を描いた。送信者、チャネル、受信者。
「シャノンのモデルでは、正確にビットが伝われば成功。でも、人間の通信では、同じビット列でも、文脈で意味が変わる」
「例えば?」由紀が聞いた。
陸が答えた。「『やばい』って言葉。良い意味にも悪い意味にも使う」
「完璧な例だ」葵が認めた。「同じシンボル列だけど、文脈で意味が逆転する」
「じゃあ、情報理論は使えないんですか?」由紀が不安そうに聞いた。
「いや、拡張が必要なんだ。送信者と受信者が共有する知識を考慮する」
ミラが新しい図を描いた。二つの円が重なる。
「共通基盤」葵が説明した。「送信者と受信者が共有する知識、経験、文化。これが意味を決定する」
「共通基盤が大きいほど、少ないビットで多くを伝えられる?」由紀が推測した。
「正確。夫婦が『あれ』『それ』だけで会話できるのも、巨大な共通基盤があるから」
陸が考えた。「じゃあ、初対面の人とは、たくさん説明が必要?」
「そう。共通基盤が小さいから、明示的に情報を送る必要がある」
由紀がノートを見た。「これって、条件付きエントロピーと関係ありますか?」
葵の目が輝いた。「鋭い。まさにそうだ。H(メッセージ|文脈)。文脈を知ってると、メッセージの不確実性が減る」
「だから、文脈なしで『やばい』を聞いても、意味が分からない」陸がまとめた。
「でも」由紀が言った。「文脈も情報ですよね?どうやって伝えるんですか?」
「良い質問。実は、文脈の多くは暗黙的に共有されてる。物理的環境、過去の会話、社会的規範」
ミラがメモを見せた。「Pragmatics - language in use」
「語用論だ」葵が訳した。「言語が実際にどう使われるか。形式的な意味だけじゃなく、使用の文脈を考える」
陸が例を挙げた。「『塩取って』は、命令だけど、質問の形になってることもある」
「間接発話行為だ。表面の形式と実際の意図が違う」
由紀が混乱した。「じゃあ、情報量ってどう測るんですか?」
「難しい問題だ。ビット数では測れない。受信者の知識状態がどれだけ変化したかを考える必要がある」
葵は新しい式を書いた。「ΔK = K_after - K_before。知識の変化量だ」
「でも、知識を数値化するのは難しい」
「だから、意味的情報理論はまだ発展途上。でも、機械学習の進歩で、意味の表現が可能になってきた」
「表現学習?」由紀が聞いた。
「単語や文を、ベクトル空間に埋め込む。意味的に近い言葉は、ベクトル空間でも近い」
ミラが複雑な図を描いた。多次元の空間に点が散らばっている。
「これが意味空間だ」葵が説明した。「『王様』から『男性』を引いて『女性』を足すと、『女王』に近くなる」
陸が驚いた。「意味が計算できるの?」
「ある程度はね。完璧じゃないけど、有用だ」
由紀が考え込んだ。「じゃあ、将来は意味を圧縮できる?」
「理論的には可能。例えば、『昨日の会議で話した件』と言えば、長い文脈を短く参照できる」
「ポインタみたい」陸が言った。
「まさに。共通基盤は、メモリへのポインタだ。すでに保存された情報を参照する」
由紀が笑った。「人間の会話って、効率的なんですね」
「とても。でも、その効率は共通基盤に依存する。だから、異文化コミュニケーションは難しい」
ミラが静かに言った。「Translation loses meaning」
「翻訳は意味を失う」葵が頷いた。「言語を超えて、文化的文脈を伝えるのは困難だ」
「だから、ノイズだけが問題じゃない」由紀がまとめた。「共通基盤の欠如も、コミュニケーションを阻む」
「正確。伝わらない理由は、技術的な問題だけじゃない。意味の問題でもあるんだ」
四人は、言葉の奥にある意味の層について、静かに考えた。情報は、ビットだけでは測れない。