「疲れた…」
奏が机に突っ伏した。
ミリアが笑った。「ATPが足りない?」
「ATP?」
「アデノシン三リン酸。細胞のエネルギー通貨」
零が図を描いた。「三つのリン酸基が、高エネルギー結合でつながってる」
「結合がエネルギー?」奏が聞いた。
「正確には、加水分解するときにエネルギーが放出される」
ミリアが補足した。「ATP → ADP + Pi。約30 kJ/molのエネルギー」
「それが、筋肉を動かす?」
「筋肉、神経、合成反応、能動輸送…ほぼすべてにATPが必要」
奏がメモを取った。「どうやって作られるの?」
「主に三つの経路」零が答えた。「解糖系、クエン酸回路、酸化的リン酸化」
「複雑そう…」
「段階的にエネルギーを取り出す仕組み」
ミリアが説明を始めた。「まず解糖系。グルコースを、ピルビン酸に分解」
「それでATPができる?」
「少し。グルコース一分子から、正味2 ATP」
「少ない…」奏が驚いた。
「解糖系は酸素が要らない。古い代謝経路だから」
零が続けた。「酸素があれば、ピルビン酸はミトコンドリアに入る」
「ミトコンドリア?」
「細胞の発電所。クエン酸回路と電子伝達系がある」
ミリアが詳しく描いた。「クエン酸回路。ピルビン酸が完全に酸化される」
「CO₂になる?」
「そう。でも、直接ATPはあまり作らない」
「じゃあ何のため?」奏が聞いた。
「NADHとFADH₂を作る。これが電子の運び屋」
零が説明した。「これらが、電子伝達系に電子を渡す」
「電子伝達系?」
「一連のタンパク質複合体。電子が段階的に移動する」
ミリアがアニメーションを見せた。「電子が移動するたびに、プロトンが膜の外に出る」
「プロトンって、H⁺?」
「そう。濃度勾配ができる」
零が続けた。「そのプロトンが、ATP合成酵素を通って戻る」
「戻るときに、ATPができる?」
「正解。化学浸透説。ノーベル賞を取った理論」
奏が計算した。「グルコース一分子から、全部で何ATP?」
「理論上、約30から32 ATP」ミリアが答えた。
「解糖系の2と比べて…」
「圧倒的に効率的。だから、酸素呼吸する生物が繁栄した」
零が整理した。「でも、常にATPは不足気味」
「なんで?」奏が聞いた。
「使う速度が速いから。特に脳と筋肉」
ミリアが付け加えた。「脳は体重の2%だけど、ATPの20%を消費する」
「すごい消費量…」
「だから、常に酸素とグルコースが必要。数分途絶えただけで、脳は損傷を受ける」
零が続けた。「筋肉は、クレアチンリン酸を貯蔵してる」
「それも、エネルギー?」
「ATP予備軍。瞬時にATPを再生できる。でも、数秒しか持たない」
奏がノートを見直した。「ATPが足りない理由…作るのが大変だから?」
「そして、使うのが簡単だから」ミリアが言った。
零が微笑んだ。「効率的だけど、常に綱渡り」
奏が呟いた。「私が疲れてるのも…」
「細胞がATPを使い果たしかけてる」
「休めば回復する?」
「そう。睡眠中も、ATPは作られ続ける」
ミリアが窓を開けた。「呼吸するたび、ATPを作ってる」
奏が深呼吸した。「今、ミトコンドリアが働いてる?」
「何兆個ものミトコンドリアが、同時に」
零が静かに言った。「生きてるって、ATP合成と消費の連続」
奏がノートを閉じた。「ATPが足りない理由、分かった気がする」
「生命は、常にエネルギーを求める」ミリアが言った。
「でも、だから動ける」零が付け加えた。
三人は沈黙した。見えない分子が、休まずエネルギーを作り続ける。
「ありがとう、ATP」奏が呟いた。
ミリアと零が笑った。「エネルギーに感謝」