「おかしい。同じ反応なのに、速度が全然違う」
トウマが二つの試験管を比べていた。
「片方は酵素あり?」零が尋ねた。
「両方あり。でも、こっちは全然進まない」
奏が覗き込む。「温度は?」
「同じ。pHも同じ。何が違うんだ?」
零が考え込んだ。「基質濃度を測った?」
トウマが計算を見直した。「あ…こっちは基質が少なすぎる」
「それだ」零が頷いた。「酵素反応の速度は、基質濃度に依存する」
「でも、酵素があれば速いんじゃないの?」奏が質問した。
零がホワイトボードに式を書き始めた。「ミカエリス・メンテン式。v = Vmax[S] / (Km + [S])」
「v は反応速度、[S]は基質濃度」
「Vmax は?」
「最大速度。全ての酵素が基質で飽和した時の速度」
トウマが理解した。「じゃあ、基質が少ないと、酵素が働けない?」
「そう。酵素と基質が出会わなければ、反応は起きない」
奏がノートに書き留めた。「Kmは何ですか?」
「ミカエリス定数。酵素の基質への親和性を示す」
零が続けた。「Kmが小さいほど、少ない基質濃度で効率よく働く」
「酵素と基質の相性?」トウマが聞く。
「そうとも言える。でも、正確には複雑な平衡定数だ」
奏が疑問を持った。「酵素は、どうやって反応を速くするんですか?」
「活性化エネルギーを下げる」零が図を描いた。
「反応物から生成物へ行くには、エネルギーの山を越える必要がある。酵素はその山を低くする」
「どうやって?」
「遷移状態を安定化する。酵素の活性部位が、遷移状態の形にぴったり合う」
トウマが興奮した。「鍵と鍵穴みたいに?」
「古典的な比喩だけど、正確ではない」零が訂正した。「誘導適合モデルの方が正しい」
「誘導適合?」
「基質が結合すると、酵素の形が変わる。そして、最適な配置になる」
奏が考え込んだ。「でも、酵素自体は変化しないんですよね?」
「鋭い。触媒の定義だ。反応の前後で、酵素は元に戻る」
トウマが試験管に基質を追加した。「じゃあ、これを足せば?」
数秒後、溶液の色が急速に変わり始めた。
「進んだ!」
零が説明した。「基質濃度が Km を超えた。酵素が効率よく働き始めた」
「でも、どこまで速くなるの?」奏が聞く。
「Vmax まで。それ以上は、どんなに基質を増やしても速くならない」
トウマが理解した。「酵素の数が限界?」
「そう。全ての酵素が働いても、それ以上は無理。ターンオーバー数で決まる」
奏が質問した。「ターンオーバー数?」
「一つの酵素が、一秒間に処理できる基質の数。酵素によって違う」
零が例を挙げた。「カタラーゼは超高速。毎秒400万分子の過酸化水素を分解する」
「速すぎる!」トウマが驚いた。
「拡散律速に近い。基質が酵素に到達する速度が限界になる」
奏が深く考え込んだ。「酵素って、完璧な機械みたい」
「でも、生物学的な制約もある」零が認めた。「温度、pH、阻害剤。全てが影響する」
トウマが新しい疑問を持った。「阻害剤?」
「酵素の働きを止める物質。競争阻害、非競争阻害、色々なタイプがある」
「薬として使われることも」零が付け加えた。「特定の酵素を阻害して、病気を治療する」
奏が感心した。「酵素反応、奥が深いですね」
「生化学の中心だ」零が静かに言った。「生命の全ての反応は、酵素が制御している」
トウマが試験管を光にかざした。反応が順調に進んでいる。
「ミステリーは解けた」
「でも、新しい謎が生まれる」零が微笑んだ。「それが科学だ」
三人は、見えない触媒の働きに、静かな敬意を払った。