「情報って、重さがあるんですか?」
由紀が突然聞いた。三人は図書館で勉強していた。
葵が興味深そうに顔を上げた。「物理的な重さ?」
「いえ、比喩じゃなくて。本当に」
「面白い質問だね。答えは、ある意味でイエスだ」
陸が混乱した。「情報が重い?データに質量がある?」
その時、S教授が通りかかった。
「良い議論をしているね。情報の物理的側面か」
「教授、情報に重さがあるんですか?」由紀が聞いた。
「直接的な質量はない。でも、情報を保持するには、物理的な状態が必要だ。そして、物質とエネルギーには等価性がある」
S教授は椅子に座った。
「E=mc²。アインシュタインの式だ。エネルギーは質量と等価。そして、情報を処理するにはエネルギーが必要」
葵が補足した。「ランダウアーの原理。1ビットの情報を消去するには、最低kT ln2のエネルギーが必要」
「消去?」陸が聞いた。
「そう。情報を保存するのは、原理的にはエネルギー不要。でも、消去には必ずエネルギーが要る」
S教授が説明を続けた。「メモリに情報を書き込む。いずれ、容量が一杯になる。古い情報を消さなければならない」
「その時、エネルギーが必要?」由紀が確認した。
「必要だ。そして、そのエネルギーは熱として放出される」
「だから、コンピュータは熱くなる」陸が納得した。
「一部はそうだ。計算自体は、可逆ならエネルギー不要。でも、情報の消去は不可逆で、必ず熱を生む」
葵が計算した。「室温で1ビット消去すると、約3×10⁻²¹ジュール」
「めちゃくちゃ小さい」陸が言った。
「そう。でも、現代のコンピュータは毎秒何兆ビットも処理する。積もり積もると、大きなエネルギーになる」
由紀が考えた。「じゃあ、情報が増えると、宇宙のエネルギーが減る?」
「逆だ」S教授が訂正した。「情報を消去すると、エントロピーが増える。宇宙は無秩序に向かう」
「でも、情報を保存すれば?」
「保存自体はエネルギー不要。でも、維持するには、ノイズと戦う必要がある。そこでエネルギーを使う」
葵が新しい視点を提示した。「ブラックホールのエントロピーを考えると、情報は物理的実体を持つ」
「ブラックホール?」陸が驚いた。
「ブラックホールのエントロピーは、表面積に比例する。内部に含まれる情報量と関係してる」
S教授が頷いた。「ベッケンシュタイン-ホーキング公式だ。情報は、空間に刻まれる」
「空間に刻まれる…」由紀が呟いた。
「そう。情報は抽象的な概念ではなく、物理的な宇宙の一部なんだ」
陸が質問した。「じゃあ、この図書館の本は、重くなってる?情報が詰まってるから」
「厳密に言えば、イエス」S教授が微笑んだ。「でも、その差は測定不可能なほど小さい」
葵が補足した。「理論的には、情報を持つことで、系のエネルギー状態が定義される。エネルギーがあれば、質量がある」
「でも、実用的には無視できる」S教授が言った。「質量の変化は、電子の質量の何兆分の一以下だ」
由紀がノートを見た。「情報理論って、本当に物理学なんですね」
「そうだよ。情報と物質とエネルギーは、切り離せない」
陸が冗談を言った。「じゃあ、勉強すると頭が重くなるのは、情報の重さ?」
「それは疲労だろう」葵が笑った。「でも、脳がエネルギーを消費してるのは事実だ」
「脳は体の2パーセントの質量しかないけど、20パーセントのエネルギーを使う」S教授が教えた。
「そのほとんどが、情報処理に使われる」
由紀が窓の外を見た。「この宇宙のすべてが、情報でできてる気がします」
「ある物理学者は、そう主張している」S教授が静かに言った。「It from bit。すべての物理的実在は、情報から生まれる」
「哲学的ですね」陸が言った。
「情報理論の最前線は、哲学と物理学の境界にある」葵が答えた。
四人は、目に見えない情報の重さを感じながら、静かに本を読み続けた。知識を得るたびに、脳の中で情報が書き込まれ、消去され、エネルギーが流れる。
情報は、軽やかに見えて、実は宇宙の基盤なのかもしれない。