「俺、全然悪くないよね?」
海斗が言った。少し不安そうな顔で。
空とレオが顔を見合わせた。
「何があったの?」空が聞く。
「友達と約束してたのに、忘れちゃって。でも、向こうも確認してこなかったし、LINEの通知も来なかったし…」
レオが静かに聞いた。「でも、約束したのは事実?」
「うん。でも、相手も悪いよね」
空がノートを開いた。「それ、自己欺瞞かもしれません」
「自己欺瞞?」
「自分の非を認めず、正当化しようとすること」空が説明した。「心理学では、よくある防衛機制の一つです」
海斗が少し不機嫌になった。「俺が嘘ついてるって言うの?」
「嘘とは違う」レオが言った。「本人も、それが正当化だと気づいていない。だから『自己』欺瞞なんだ」
「どういうこと?」
空が説明を続けた。「人間の心は、自己イメージを守ろうとします。『自分は悪い人間だ』と認めるのは辛いから、無意識に言い訳を作る」
「俺の言い訳は、正当な理由だよ」海斗が反論した。
「本当に?」レオが問い返した。「相手が確認しなかったことと、君が約束を忘れたことは、別の問題じゃないか?」
海斗が黙った。
空が優しく言った。「今、心の中で何が起きていますか?」
「うーん…分かってる。俺が悪い。でも、それを認めたくない」
「それが自己欺瞞の始まり」レオが指摘した。
空がノートに書いた。「認知的不協和」
「何それ?」
「自分の行動と信念が矛盾している時の不快感。『自分は良い友達』と思いたいのに、『約束を破った』という事実が矛盾する」
「だから、その不快感を解消しようとする」レオが続けた。「事実を変えるか、信念を変えるか、あるいは正当化するか」
海斗が理解した。「俺は、正当化を選んだってこと?」
「そう。『相手も悪い』と言うことで、自分の非を薄めようとした」
「でも」海斗が言った。「本当に相手も悪いと思ってるんだよ」
空が頷いた。「それが自己欺瞞の恐ろしいところ。本人は、本気でそう信じている」
レオが説明した。「心は、無意識に記憶を歪める。都合の悪い部分を忘れ、都合の良い部分を強調する」
「じゃあ、俺の記憶も歪んでる?」
「可能性はある」空が言った。「約束の詳細、本当に正確に覚えていますか?」
海斗が考え込んだ。「自信ない…かも」
「それでいい」レオが認めた。「自己欺瞞に気づくことが、第一歩だ」
空が聞いた。「今、どう感じますか?」
「罪悪感。そして、少し楽になった感じもある」
「罪悪感は健全な反応です」空が言った。「自分の非を認められるということ」
「楽になったのは?」海斗が不思議そうに聞く。
「自己欺瞞を維持するのは、無意識にエネルギーを消費します」レオが説明した。「真実を認めると、そのエネルギーが解放される」
海斗がスマホを取り出した。「友達に謝る」
「良い選択だ」レオが頷いた。
「でも」海斗が躊躇した。「相手が怒ってたら?」
「それは受け入れるしかない」空が言った。「自己欺瞞を続けるより、誠実でいる方が、長期的には楽です」
海斗がメッセージを打ち始めた。「『ごめん、俺が完全に忘れてた。悪かった』」
「シンプルで良い」レオが認めた。「言い訳を付け加えたくなるだろうけど」
「付け加えたい」海斗が苦笑いした。「でも、やめとく」
空が微笑んだ。「自己欺瞞に気づけたこと、素晴らしいです」
送信ボタンを押す。海斗の表情が、少し軽くなった。
「自己欺瞞って、誰でもやるの?」海斗が聞く。
「誰でも」レオが答えた。「完全に避けることは、おそらく不可能だ」
「でも」空が加えた。「気づくことはできます。そして、修正することも」
窓の外で、雲が流れる。自己欺瞞は、心を守る盾だ。でも、その盾に隠れ続けると、真実から遠ざかる。時には、盾を下ろす勇気が必要だ。
海斗が静かに言った。「次は、もっと早く気づけるようになりたい」
「それが成長だ」レオが微笑んだ。
自己欺瞞が生まれる瞬間を、海斗は今日、はっきりと見た。そして、それを乗り越える選択をした。小さいけれど、確かな一歩だった。