「見て、赤くなった!」
トウマが試験管を振った。溶液が鮮やかな赤色に変わっている。
「ヘモグロビンに酸素が結合した」ミリアが説明した。
「なんでこんなに色が変わるの?」奏が興味深そうに聞く。
零が答えた。「ヘムの鉄イオンの電子状態が変化するからだ」
「ヘム?」
ミリアがタブレットに分子構造を表示した。「ポルフィリン環の中心に鉄イオンFe²⁺がある。この複雑な構造がヘムだ」
「赤い色の正体」
「そう。でも、正確には鉄の酸化状態と配位子で色が決まる」
零が詳しく説明した。「酸素が結合していないデオキシヘモグロビンは暗赤色。酸素が結合したオキシヘモグロビンは鮮やかな赤」
トウマが試験管を傾けた。「この瞬間に何が起きてる?」
「鉄イオンが酸素分子O₂と配位結合を形成する」ミリアが図を描いた。
「酸素は、鉄の第六配位位置に結合する。反対側にはヒスチジンがある」
奏がノートに書き留めた。「配位結合?」
「金属イオンと配位子の間の結合。共有結合と似ているけど、両方の電子が配位子から来る」
零が付け加えた。「この時、鉄イオンの電子配置が変わる。高スピン状態から低スピン状態へ」
「それが色の変化?」
「その通り。電子配置が変わると、吸収する光の波長が変わる」
ミリアが興奮した。「でも、もっと面白いのは協同性だよ」
「協同性?」トウマが聞く。
「ヘモグロビンには四つのサブユニットがある。一つが酸素を結合すると、他の三つも結合しやすくなる」
零がグラフを描いた。「シグモイド曲線。酸素分圧に対する結合率」
「なんで協同的なの?」奏が質問した。
「構造変化が伝播するんだ」ミリアが説明した。「一つのサブユニットが酸素を結合すると、全体の構造が少し変わる。T状態からR状態へ」
「T状態?」
「Tense、緊張状態。酸素が結合しにくい。R状態はRelaxed、弛緩状態で、結合しやすい」
零が付け加えた。「これがアロステリック効果。離れた場所での結合が、構造変化を通じて影響を及ぼす」
トウマが考え込んだ。「でも、なんでそんな複雑な仕組みが必要?」
「効率的な酸素運搬のため」ミリアが答えた。
「肺では酸素分圧が高いから、四つ全部結合する。組織では分圧が低いから、一気に放出できる」
奏が理解した。「ON-OFFがはっきりしてる」
「まさに。もし協同性がなければ、中途半端にしか放出できない」
零が実例を挙げた。「胎児のヘモグロビンは、母親のヘモグロビンより酸素親和性が高い。効率的に酸素を受け取れる」
「進化の知恵」トウマがつぶやいた。
ミリアが別の例を出した。「一酸化炭素CO は、酸素の200倍以上の親和性がある」
「だから危険なんだ」奏が理解した。
「そう。一度結合すると、なかなか離れない。酸素が結合できなくなる」
零が警告した。「そして、一つが結合すると、協同性で他も結合しやすくなる。悪循環だ」
トウマが試験管を光にかざした。赤い液体が美しく輝く。
「この色、命の色なんだ」
ミリアが微笑んだ。「鉄と酸素の出会い。その一瞬が、生命を支えている」
「毎秒、体中で何億回も起きてる」零が付け加えた。
奏が深呼吸した。「今、私の肺で、ヘムが赤く光ってる」
「そして、全身の細胞に酸素を届けてる」
トウマが静かに言った。「ヘモグロビン、働き者だな」
四人は試験管を見つめた。小さな分子が、大きな生命を支える。
「科学は詩だ」ミリアがつぶやいた。
他の三人も頷いた。ヘムの赤い輝きに、生命の神秘を見た。