「昔の写真を見ると、別人みたい」
晴がつぶやいた。
サイモンが答えた。「でも、あなたはあなただ」
「そうかな。考え方も、好きなものも、全然違う」
「変化と同一性。哲学の古典的な問題だ」
美緒が静かに近づき、隣に座った。
晴が聞いた。「美緒は、自分らしさって何だと思う?」
美緒は少し考えてから、ノートに書いた。「変わらないもの?」
サイモンが興味を持った。「でも、何が変わらない?」
晴が考えた。「身体?でも、細胞は入れ替わるって聞いた」
「七年で全て入れ替わる、という説がある」
「じゃあ、物理的には別人」
「テセウスの船のパラドックスだ」サイモンが説明した。
「何それ?」
「船の部品を一つずつ交換していく。全部交換したら、同じ船?」
晴が驚いた。「難しい」
美緒がノートに書いた。「連続性?」
「鋭い」サイモンが頷いた。「一度に全部変わるわけじゃない」
「少しずつ変わるから、同じと感じる」晴が理解した。
「でも、連続性だけで十分か」サイモンが問う。
「十分じゃない?」
「記憶が全部消えたら、同じ人?」
晴が考え込んだ。「記憶が自分を作る?」
「ロックの記憶説。自己同一性は記憶の連続性に基づく」
美緒が書いた。「でも記憶は曖昧」
「その通り」サイモンが認めた。「記憶は書き換わる」
「じゃあ、何が自分らしさ?」晴が混乱した。
サイモンが別の視点を提示した。「ナラティブ・アイデンティティという考えがある」
「ナラティブ?」
「物語。自分の人生を、一つの物語として理解する」
晴が興味を持った。「私は私の物語?」
「そう。過去を解釈し、未来を構想する。その物語が自己を作る」
美緒が書いた。「物語は変わる」
「変わる」サイモンが頷いた。「同じ過去でも、解釈は変わる」
晴が驚いた。「じゃあ、自分は流動的?」
「固定的な本質はないかもしれない」
「仏教の無我?」晴が聞いた。
「近い。自己は関係性の中で生まれる」
美緒が書いた。「役割?」
「それも一つ。娘、友人、学生。役割が自己を規定する」
晴が反論した。「でも、役割を演じてるだけじゃ、本当の自分じゃない」
「『本当の自分』は存在する?」サイモンが問う。
「存在する、と思いたい」
「実存主義は、本質に先立つ実存を主張した」
「難しい」
サイモンが説明した。「人間には、あらかじめ決まった本質はない。生きることで、自分を作る」
晴が理解した。「自分らしさは、与えられるんじゃなくて、作るもの?」
「サルトルならそう言う」
美緒が書いた。「自由と責任」
「そう。自分を作る自由と、その責任」
晴が窓を見た。「重いね」
「重い。でも、それが人間の条件だ」
晴が質問した。「じゃあ、『自分を見つける』って言うのは間違い?」
「見つけるより、創造する」サイモンが答えた。
「でも」美緒が書いた。「核となるものは?」
サイモンが考えた。「価値観、かもしれない」
「価値観?」
「何を大切にするか。それは比較的安定している」
晴が納得した。「私が私であるのは、何を大切にしているから」
「一つの答えだ」
美緒が書いた。「でも価値観も変わる」
「変わる」サイモンが認めた。「完全に固定的なものはない」
晴が笑った。「結局、答えはない?」
「簡単な答えはない。でも、問い続けることに意味がある」
美緒が立ち上がり、窓を開けた。風が入る。
晴が言った。「美緒らしい」
サイモンが微笑んだ。「らしさは、パターンだ」
「パターン?」
「繰り返される行動、選択、反応。それが『らしさ』を作る」
晴が理解した。「美緒が窓を開けるのは、美緒らしい」
「そう。でも、開けないこともある」
「完全に決まってない」
「そこに自由がある」
美緒がノートに書いた。「自分らしさ=パターン+自由」
サイモンが頷いた。「良い定式化だ」
晴が深呼吸した。「自分らしさの正体、少し分かった気がする」
「分かったと思ったら、また変わる」サイモンが笑った。
「それでいい?」
「それでいい。自己理解は、終わりのない過程だ」
三人は静かに風を感じた。変化する自分、でも連続する自分。その矛盾の中に、自分らしさがある。